Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.2.8

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『洗心洞箚記』 (抄)

その2

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

序 説

一 生 涯 (2)

 中斎幼児の師を、或は越智高洲 名翼 と云ひ、或は鈴木撫泉 名恕平 といふも確かならず。田結庄千里が「先生八歳にして篠崎応道 号三島 小竹の父 の門に入りて句読を受く。天稟頴才と絶倫の精力とを併せて、十二三歳の頃既に四書五経以下経史の大義に通ず」と云へるは、信ずるに足る如し。後ち林述斎の門に入りて儒学を講究し、刻苦励精以て儕輩を凌げりと。但其の何歳なりしやを詳にせず、又た此の事のなかりしを伝ふるものもあり、よつてこれを記するにとゞむ。

 文化三年、祖父老年致仕せるを以て、中斎十四歳にして東町奉行析の与力見習として仕官す。時に近海の風雲漸く急なり。中斎深く時事を憂ひ、練武にいそしむ。翌年家譜を読み、慨然として刀筆に従事し、獄吏の班に伍するを耻ぢ、功名気節を以て父祖の志を継がんことを決し、柴田勘兵衛の門に入りて佐分利流の槍術を学び、兼て中島流の砲術を修めて其の奥儀を極むるに至る。十九歳定町廻役となる。時に市中盗難頻出す、中斎之を海賊の所為として三十余名を捕ヘ、勤役第一の功名をあぐ。

 二十歳、公職を執ること数年、自己に学問の素なく、驕慢非僻に陥り、其の心を欺き理に背くこと多きを慨み、心機一転、儒学に志ざすに至る。即ち自己完成こそ人生行路上最大緊切事なるを覚りたるによる。翌年篠時応道七十七歳を以て逝く、其の他に師を求めしや詳ならず。自己完成の大道を歩まんとせる中斎にとつては、訓詁の末に馳せて、其の本源を忘却し去りたる当時の儒者に漸く失望を感じ、退いて読書思索に時を過すに至る、偶々明の儒者呂坤の呻吟語を得て自得する所あり、再転王学に志せり。惟ふに中斎は真学真修の人なり。王子致良知の学に契つて、天理人心の根機に帰入し、誠意を標的とし、致良知を工夫とし、事上練磨、現在の吏務に尽瘁するを以て全功となし、以て君恩組祖恩及び聖賢の教恩に報じて、敢て人に譲らざらんことを期するに至る、これ中斎の悟境なり。惟ふに此の時廿四五歳ならんか。此の頃より奉行所中の子弟の請に応じて文武両道を教授し、文政八年三十三歳茲に其の家塾を洗心洞と名付く。

 二十二歳、祖父政之丞政余歿す、其の遺命によりて橋本忠兵衛の女ヒロを納れて室となす。時に二十一歳、後ユウと改む。


石崎東国『大塩平八郎伝』 その16


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