Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.10.11

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『洗心洞箚記』 (抄)

その34

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

附録抄

 亡友頼山陽之序と詩とを箚記附録に入刻する自記

亡友山陽頼氏の余に贈るの序と一篇六首を編次し以て箚記の附録に入刻すと云ふ、而て附録に入刻するものは、大抵皆箚記を読める人の詩文のみ、山陽是れよりさき既に下世せり、然るに其の文と詩とを編次して以て入刻す、

抑々説あるか、余故に之を自記し、以て其の由ろを詳述す、

夫れ山陽の善く詩文を属し、史事に洞通するは、詩客文人の知る所、而て我れは則ち嘗て吏と為り、訟獄に与り参し、且つ陽明王子致良知の学を講ずるものなり、世情を以て之を視れば、則ち山陽と相容れざる如く然り、然れども往来断えず、送迎絶えざるは何ぞや、余の山陽を善(よ)みするものは、其の学にあらずして而て竊に其の胆にして識あるを取る、而て山陽は、何の観る所あつて以て我れを善みせるか、吾れ初め識らざるなり、

庚寅の秋余致仕の後、尾張の宗家大塩家に如(ゆ)き以て祖先の墳墓に謁す、其の時に当つて山陽是の序を製して我れの行に餞す、其の人の言ひ難き時事に於て、彼れ独り能く口を開いて之を言ひ、而て忌憚の情態あることなし、則ち豈其の胆の発見にあらずや、余を戒むるに再び(こう)(しゆ)とに就かざるを以てす、則ち亦た其の識の大略を見るべし、

而て余嘗て山陽に陽明全集を貸す、読み了りて乃ち七言絶句一首を賦して以て余に示す、

余蔵する所の趙子璧の蘆雁の画幅、山陽朶頤(だい)之を久しうす、京より浪華に来り、三度余の家に到り、之を乞ふこと切なり、遂に抛(なげう)つて之を与ふ、乃ち又た七言絶句一首を賦して以て之を謝す、

其の後山陽遽に来つて曰ふ、茶山翁の遺杖を某津頭(しんとう)に遺(わす)る、捜索すと雖も既に有ること無し、兄の力を以て之を獲(え)ば、則ち幸甚しと、余之を捜(さぐ)つて獲たり、専价(せんかい)もて之を持して以て送つて曰く、老竹幸に未だ化して龍と為らず、猶潜んで某水辺に在り、之を獲て以て子に還す、子今より宜しく放失すること無かるべしと、之を謝するに又た七言絶句一首を以てす、

其の日本外史を撰する時、余の蔵する所の胡致堂先生の読史管見を借らんことを乞ふ、而も蔵書は軽々しく外人に貸さず、自から以請(おも)ふ、山陽の著撰は、善を勧め悪を懲らす、蓋し世に益あらんと、故(ことさら)に門人を遣はし、持して以て之を貸す、事了りて諸(これ)を余に還すや、之を謝するに又た七言古体一詩を以てす、而て外史の稿を脱するや、我れ之を求めしに、写本一部を寄す、其の報を問ふ、曰く、他人に於ては則ち黄白、兄の如きは則ち報無しと雖も可なり、若し或は強ひて之を賜はゞ、則ち兄の常に佩(お)ぶる所の刀一口(ひとふり)を脱して以て之を投ぜよ、当に身を衛(まも)るの物と為すべしと、因つて之に報ずるに月山(げつさん)造る所の九寸有余の短刀を以てす、乃ち又た七言古詩を裁して以て之を謝す、

其の余山陽嘗て余を訪ふ時、余将に衙に上(のぼ)らんとす、独り書斎に入つて五言古詩を賦し、諸を壁上に粘(は)りて以て去る、

以上序一篇詩六首、皆之を篋中(けふちゆう)に収む、而て壬辰四月、山陽又た江を下りて余を訪ふ、觴酒の際山陽余に謂ひて日く、兄の学問は心を洗うて以て内に求む、が如き者は、外に求めて以て内に儲(たくは)へ、而て詩を作り、而て文を属す、相反するが如く然りと、然れども吾が古本大学刮目の稿を一見せんことを請ふ、故に之を出して以て示す、其の網領を読み畢(をは)つて曰く、是れ一家言にあらず、昔儒格言の府なり、や不敏なりと雖も、講ふ之に序せんと、余答へて曰く、他日之を煩はさんと、而て復た未刻の箚記若干條を以て乃ち亦た示す、其の読んで半を過ぐるや、日既に暮れ、之を尽す能はず、曰く、上梓を待つて以て之を評せん、然れども今一見する所の條條は、聖学の奥に於 てや間然する所なし、深く太虚の説に服すと云ふ、

而て其の秋山陽血を吐いて病革なりと聞き、吾れ上洛して以て其の家に到れば、則ち其の日既に簀(さく)を易(か)ゆ、大哭して帰る、夢の如く幻の如し、往事を追思すれば、向(さ)きに山陽の余を訪うて觴酒の際、其の情の綣(けんけん)たりしは、それ果して永訣の兆か、鳴呼傷(いたま)しいかな、鳴呼悲しいかな、今山陽をして命を延ばして在り、而て箚記両巻を尽さしめば、則ち彼れに益せざれば、必ず我れに益するもの、蓋し亦た少からず、惟だ是れ余一生涯の遺憾なるのみ、

山陽の子芸藩の頼余一、余未だ相識らず、越えて癸巳(きし)夏四月、余一東都より芸に還る、便道余の浪花の弊舎を訪ひ、謀るに其の考の碑面に鐫(ほ)る謚号(しごう)の字の大小を以てす、而て其の時箚記の刻既に成る、因つて之を余一に与ふ、吾れ心に以為(おもへ)らく猶山陽に贈るごとしと、然れ ども山陽にして霊あらば、必ず両巻を尽さざるの憾を地下に含まんか、而て今其の贈序の文に由つて以て之を観れば、則ち我れを知る者は山陽に若(し)くなきなり、我れを知る者は即ち我が心学を知る者なり、我が心学を知らば則ち未だ箚記の両巻を尽さずと雖も而も猶之を尽すがごときなり、

(このごろ)山陽の詩を梓する者あり、然らば則ち必ず亦た其の文を刻する者あらん、其の文を刻する者ありと雖も、是の一篇を竄去(ざんきよ)するは、智者を待つて而て後に知らざるなり、是を以て余豈之を弊篋(へいけふ)中に蠹(と)するに忍びんや、故に入刻して以て友誼の万一を存するのみ、而て諸を其の六詩の先に置き、年月の次第に拘らざるは、他無し、斯の文は乃ち吾が躬に関係すること尤も大なるを以ての故なり、詩の如きは則ち歳月の先後に照らし以て編次す、鳴呼、此れ独り知己の為めに相忘るるなきのみならず、抑々其の亦た陽明子の文章と其の功業とに心伏するを明かにするなり。

 天保甲午秋八月        洗心洞主人識す

   【原文(漢文)略】


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