山田準『洗心洞箚記』(本文)100 Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.11.13

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『洗心洞箚記』 (本文)

その100

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

上 巻訳者註

      たのしみ 一二六 顔子の楽は、万生の楽を以て楽と為す。朱子  曰く、「人の楽しまざる所以は、欲あるのみ。欲無     すなは  ければ便ち楽しむ」と。それ心無欲の時に当つては、  只だ虚のみ。虚なれば則ち万生の楽を以て楽と為す。  何となれば万生吾が虚中に在るを以てなり。顔子は    亜聖にして、既に其の境に至る、故に楽しむ。吾人  と雖も、もし欲なければ則ち必ず顔子と其の楽を同  じうせん。   顔子之楽、以万生之楽楽、朱子曰、「人之所   以不楽者、有欲耳、無欲便楽、」夫心当無欲   時、只虚而已、虚則以万生之楽楽、何者、   以万生在吾虚中也、顔子亜聖、既至其境、故   楽焉、雖吾人如無欲、則必与顔子其楽矣、



顔子の楽。論
語雍也篇に「一
箪の食、一瓢の
飲、回や其の楽
を改めず」とあ
り。



亜聖。聖人に
次ぐもの。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その99/その101

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