山田準『洗心洞箚記』(本文)112 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.1.19

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『洗心洞箚記』 (本文)

その112

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

上 巻訳者註

           せん けん      つく 一四〇 吾が心の理は、宣王牽牛の章に於て尽す。吾                 つまび  が体の気は、公孫丑養気の章に於て審らかなり。気                        ちか  を養ふを知つて理を明らかにせざれば、則ち勇に庶  し。而て道を体するは誠に難し。理を明らかにする                  きよ  を知つて而て気を養はざれば、則ち怯に庶し。而て     ふ         かた  道を践むこと実に艱し。故に聖学の極は、理気をし  て合一せしむるに在り。理気をして合一せしむるは、  致知格物に在り。   吾心之理、於宣王牽牛章尽矣、吾体之気、於公   孫丑養気章審矣、知気而不理、則庶乎勇、   而体道誠難矣、知理而不気、則庶乎怯、   而践道実艱矣、故聖学之極、在使理気合一也、   使理気合一、在致知格物矣、


牽牛章。孟子
梁恵王上篇に出
づ、宣王が、牛
の罪なくして死
地に就くを傷め
るは、仁心にし
て理なり。

養気章。孟子
公孫丑上篇浩然
之気の章。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その111/その113

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