●
一四三 陽明先生曰く、「文公格物の説は、只だ是れ
●づなう か ● ねんりよ び
頭脳を少ぐ。謂はゆる之を念慮の微に察するの此の
ちよ
一句の如き、之を文字の中に求め、之を事為の著に
けん もと こん
験し、之を講論の際に索むると、混じて一例と作し
ひそ
て看るべからず。是れ軽重なきなり」と。竊かに先
生の意を考ふれば、則ち之を念慮の微に察するは即
ちこれ頭脳のみと謂ふなり。此れ乃ち是れ正論なり。
何となれば則ち察すと曰ひ、求むと曰ひ、験すと曰
ひ、索むと曰ふ。それ何者か之を察し、之を求め、
之を験し、之を索むるぞ、良知にあらずして誰ぞ。
故に之を文字に求め、之を事為に験し、之を講論に
び
索むと雖も、要は皆念慮の微に帰するのみ。もし念
慮の微に帰せずんば、則ち文字事為論果して何物ぞ、
●はんはんたうたう ばうし
亦た外物のみ。泛泛蕩蕩として、亡子を道路に求む
しか
る如く然り、豈根本なき学問にあらざらんや。而も
●あら つい
况や凡ゆる天下の物に即てと云ふ、則ち外物を逐う
のこ ほと まれ がく
て心理を遺さざる者幾んど希なり。故に学人之を文
ちよ
字の中に求め、之を事為の著に験し、之を講論の際
び
に索むと雖も、必ず皆之を念慮の微に察すれば、則
たゞ ●し
ち物格しうして知至る。学んで要を知らずんば、支
り こうじ いき
離に落ち、口耳に流る。而も聖賢の域を望む、亦た
難からずや。
陽明先生曰、「文公格物之説、只是少頭脳、如
所謂察之於念慮之微此一句、不該与求之
文字之中、験之事為之著、索之講論之際、混
作一例看、是無軽重也、」竊考先生之意、
則謂察之念慮之微即是頭脳也耳、此乃是正論
也、何則曰察、曰求、曰験、曰索、其何者察
之、求之、験之、索之、非良知誰、故雖求
之文字、験之事為、索之講論、要皆帰乎念
慮之微而已矣、如不帰乎念慮之微、則文字事
為講論果何物、亦外物也已矣、泛泛蕩蕩、如求
亡子於道路然、豈非無根本学問耶、而况即
凡天下之物云、則不逐外物、而遺心理者幾
希、故学人雖求之文字之中、験之事為之著、
索之講論之際、必皆察之念慮之微、則物格而
知至、学不知要、落支離、流口耳、而望聖
賢域、不亦難乎、
|
●文公。朱子。
●頭脳。心、即
ち良知。少ぐは
缺ぐに同じ。
●謂はゆる云々。
朱子の大学問に
して格物章に格
物の條件として
程子の九條を
挙げたるを、王
子は念慮云々は
特に其の主たる
べきを弁ずるな
り。
●泛泛蕩蕩。目
当も無くひろび
ろとして居る。
●凡ゆる云々。
朱子の大学到知
格物の補伝に
「凡ゆる天下の
物に即いて云
々」とあり。
●支離。心と事
物との二つに分
れること。
|