山田準『洗心洞箚記』(本文)120 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.1.27

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『洗心洞箚記』 (本文)

その120

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

上 巻訳者註

                  ひと 一四八 或、伝習録中に謂はゆる良工心独り苦しむの                はん    べうだう  気象を問ふ。曰く、子聞かずや、范文正公、廟堂の  高きに居れば、則ち其の民を憂へ、江湖の遠きに処  れば、則ち其の君を憂ふ。進むも亦た憂へ、退くも                       亦た憂ふ、良工の心是に於て推すべし。而て文中子   ぞくけい           かんぎ    ずゐたう  およ  の続経、豈亦た容易ならんや。漢魏より隋唐に迄ぶ       かみ         しも  まで、道・上に明らかならず、俗下に美ならず、子・    しい            ほうたうほんぱ  父を弑し、臣・君を弑し、其の勢崩濤奔波の如く、             こゝ           きよ  救ふべからざるに至る。是を以て読経の挙あり、是                 の時に遇へば是の事あり、聖賢已むを得ざるの苦心              むさぼ  のみ、豈亦た名を好み利を貪ること小人の儒の如く         くわいあん  ならんや。其の余晦菴先生の敬に居り理を窮むる、  陽明先生の良知を致す、亦た復た然るのみ。而て吾              とうてつ  が輩未だ明徳親民表裏内外洞徹の功を積まず、如何   こうぜつ  ぞ口舌の際、良工の心を窺ひ得ん。而も真に学を勉             くわんき  めば、則ち他日必ず倶に管窺あらん。   或問伝習録中所謂良工心独苦気象、曰、子不   聞乎、范文正公居廟堂之高、則憂其民、処江   湖之遠、則憂其君、進亦憂、退亦憂、良工之   心、於是可推矣、而文中子之続経、豈亦容易哉、   漢魏迄隋唐、道不於上、俗不於下、子   弑父、臣弑君、其勢如崩濤奔波、至救   也、是以有続経之挙、遇是時是事、聖賢   不已之苦心焉耳、豈亦好名貪利如小人儒   哉、其余晦菴先生之居敬窮理、陽明先生之致   良知、亦復然而已、而吾輩未明徳親民表裏   内外洞徹之功、如何口舌之際、窺得良工之心、   而真勉学、則他日必倶有管窺焉、



良工云々。徐
愛所録に見ゆ、
王子門人が文中
子続経の意を問
へるに答へて此
言あり。

范文正。宋の
名臣范仲淹、文
正と謚せらる、
廟堂云々の語、
岳陽楼記に出づ。

文中子云々。
隋の大儒王通、
文中と謚す、其
の書を文中子と
いふ、別に古経
に続いて書を著
はし誹議を招く。



晦庵。朱子。






管窺。管の穴
より天をのぞく、
発明の謙辞。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その119/その121

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