● ●えんぺい
一四九 弟子問ふ、先生嘗て曰く、「延平先生云ふ、
よ
理に当つて私心無しと、是の説自ら好し。而て今人
或は外面理に当るが如き者あり、然れども果して私
●けんち
心無しと謂ふべからざるなり」と。乾知竊かに考ふ、
伝習録に曰く、「心は即ち理なり、私心無くば即ち
これ理に当る、未だ理に当らざれば、便ちこれ私心
わか
なり。もし心と理とを析ちて、之を言はば、恐らく
は亦た未だ善ならず」と。今之を先生の言に推すに、
かへ わか
反って心と理とを析ちて二と為すが如し、何ぞや。
答へて曰く、延平先生の説は、本と是れ仁を解す。
仁は心の本体にして、即ち理なり、即ち私心無きな
わか
り。心理固より析つべからず。但だ当人或は孝悌と
たいてい な
称するものあり、大抵名心利心の上より做し来る。
やゝ
則ち其の行ふ所稍理に当る如しと雖も、安んぞ私心
無しと謂ふを得ん。吾が前日の言は、常人に就て説
く、其の本体を説くにあらざるなり。故に理に当つ
て而て私心無きは、天理の極に純なるものにあらず
なんじ すべか
んば能はざるなり。爾等須らく私心なきを要すべし。
● ●きう\/や
中庸の戒慎恐懼は、即ち其の功なり。久久息まずん
ば、乃ち仁の地に至るを得ん。然らずんば事事理に
●ぎしう
当るを要するも、亦た只だ其れ義襲して取るものな
り。
弟子問、先生嘗曰、「延平先生云、当 理而無 私
心 、是説自好、而今人或有 外面如 当 理者 、然
不 可 謂 果無 私心 也」、乾知竊考、伝習録曰、
「心即理也、無 私心 、即是当 理、未 当 理、便
是私心、若析 心与 理言 之、恐亦未 善」、今推
之先生之言 、反如 析 心与 理為 二、何也、答
曰、延平先生之説、本是解 仁、仁者心之本体、
即理也、即無 私心 也、心理固不 可 析矣、但常
人或有 称 孝悌 者 、大抵従 名心利心上 做来、
則其所 行雖 如 稍当 理、安得 謂 無 私心 、吾前
日之言、就 常人 説、非 説 其本体 也、故当 理
而無 私心 、非 純 於天理之極 者 不 能焉也、爾
等須 要 無 私心 、中庸之戒慎恐懼、即其功也、
久久不 息、乃得 至 乎仁地 、不 然要 事事当 理、
亦只是義襲而取者也、
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●先生。大塩中
斎を指す。
●延平云々。延
平は朱子の師李
、此れ延平の
仁を解する語、
伝習録陸澄所録
に出づ。
●乾知。中斎の
門人松本乾知。
『洗心洞箚記』跋
●其の功。其の
手段、方法。
●久久。長くか
かつて。
●義襲。心が熟
せずして無理に
取ること、孟子
浩然の気の章に
集義に対して義
襲の語あり。
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