●やうぎやうさい ●じゆんげう
一五一 楊凝斎曰く、「時に淳澆あり、俗に美悪あり。
●たいはく
故に泰伯夷に居て化し、孔子は魯に在り、而て七十
そし ● ところ
子の外は多く之を譏る。亦た其の自ら立つ者を視る
●
のみ。もし位を得れば則ち風草上を行く」と、楊氏
し
の此の説、必ず感ずる所あつて爾か云へるなり。吾
れ亦た嘗て説あり曰く、孔子は大聖人なり。天下は
大なり、四海は広し、皆其の徳を仰望せざる莫く、
尽く其の道を尊尚せざる莫し。然れどもこれ孔子の
没後、数十百年にして乃ち然り。其の生時に当つて、
孔子より長ぜる者、孔子より貴き者、未だ嘗て一人
の誠に其の徳を仰いで、真に其の道を尊びし者ある
●
を聞かざるなり。而て其の堂に升り室に入るの諸賢
の出でし如きは、則ち孔子の晩年の事なり。而て其
わか
の孔子より少きこと、大抵三四十もしくは五十を下
がん
らざるなり。故に孔子四十歳の時、顔子は十歳、子
びん ぜん
貢は九歳、有子は七歳、閔子は五歳、而て仲弓冉有
●くわんかく さいが
は共に七歳、皆丱角の童なり。冉伯牛・宰我の年歯
さいせき あら
は、載籍に見はれずと雖も、恐らくは数子と相遠か
らざらん。子游、子夏の如きは則ち未だ生れず。而
●いはつ そう
て衣鉢を伝ふるの曾子及び子張は亦た未だ生れざる
わか にへ
なり。且つ子路少きこと九歳と雖も、贄を執るは葢
おそ じ よ
し尤も晩し。自余の七十子、三千の徒にして、孔子
より長じ、孔子より貴き者は、未だこれ有らざるな
り。而て七十三千は、其の数多きが如しと雖も、之
み ● りふ
を天下四海に視れば、則ち特に大倉の一粒のみ。豈
多からんや。夫れ天下の大、四海の広き、而て当時
何為れぞ其の門に入り其の教を受くる者乃ち少きや。
これ吾れ疑ひの心に解けざる所以なり。論孟を熟読
しやくぜん ●
して、然る後其の疑ひ始めて釈然たり。子曰く、
くみ きやうけん
「中行を得て之に与せずんば、必ずや狂狷か、狂者
●
は進んで取り、狷者は為さざる所有り」と。又た曰
●きやうげん ●
く、「郷原は徳の賊なり」と。孟子曰く、「孔子中
けん
道を得て之に与せずんば、必ずや狂 か、狂者は進
けん
んで取り、 者は為さざる所有り。孔子豈中道を欲
せざらんや、必ずしも得べからず、故に其の次を思
ふなり」と。又た曰く、「孔子曰く、我が門を過ぎ
うら
て而て我室に入らざるも、我れ憾みざる者は、それ
けん
唯だ郷原か。郷原は徳の賊なり」と。而て其の狂
たる所以と、其の郷原たる所以とを詳述し、眼に彼
あ ゝ
此相反するの状態を見るが如くならしむ。嗟乎、春
たれ ●えん こ
秋の時に当つて、孰か閹然世に媚ぶる者に非ざらん
どう を せ
や、孰か流俗に同じ汚世に合する者に非ざらんや、
れんけつ
孰か之に居ては忠信に似、之を行うては廉潔に似る
者にあらざらんや、孰か徳を乱る者にあらざらんや。
●く く●りやうりやう
而て古の人古の人と曰ふは、これ誰ぞや。 凉凉
すくな
たるは是れ誰ぞや。然らば則ち狂狷は晨星より鮮く、
たう\/
而て郷原は即ち天下滔滔として皆是れなるのみ。孔
すくな
子道を開き教を立つ、特に其の晨星より鮮きの狂狷
を取る、而て其の室に入るを願はざる者は天下滔滔
たるの郷原なり。宜なるかな当時其の教を受くる者
の寥蓼たるや、吾れ亦た奚んぞ疑はんや。鳴呼道の
こゝ こゝ
貴き所は此に在り、道の行はれざる所も亦た此に在
るか。
楊凝斎曰、「時有 淳澆 、俗有 美悪 、故泰伯居
夷而化、孔子在 魯、而七十子之外多譏 之、亦視
其自立者 而已、若得 位則風行 草上 矣」、楊氏
此説、必有 所 感而云 爾也、吾亦嘗有 説曰、孔
子大聖人也、天下大也、四海広也、莫 皆不 仰
望其徳 、莫 尽不 尊 尚其道 、然此孔子没後、数
十百年而乃然、当 其生時 、長 孔子 者、貴 乎孔
子 者、未 嘗聞 有 一人誠仰 其徳 、真尊 其道 者
也、而如 其升 堂入 室之諸賢出 焉、則孔子晩年
之事、而其少 孔子 、大抵不 下 三四十如五十 也、
故孔子四十歳之時、顔子十歳、子貢九歳、有子七
歳、閔子五歳、而仲弓冉有共七歳、皆丱角童也、
冉伯牛宰我年歯雖 不 見 載籍 、恐与 数子 不 相
遠 矣、如 子游子夏 則未 生矣、而伝 衣鉢 之曾子
及子張亦未 生也、且子路雖 少九歳 、執 贄葢尤晩
矣、自余七十子三千之徒、長 孔子 、貴 乎孔子 者、
未 之有 也、而七十三千、雖 其数如 多、視 之平
天下四海 、則特大倉一粒而已矣、豈多乎哉、夫天
下之大、四海之広、而当時何為入 其門 受 其教 者
乃少矣耶、是吾所 以疑之不 解 乎心 也、熟 読論
孟 、然後其疑始釈然矣、子曰、「不 得 中行 而
与 之、必也狂狷乎、狂者進取、狷者有 所 不 為」
也、又曰、「郷原徳之賊也」、孟子曰、「孔子不
得 中道 而与 之、必也狂 乎、狂者進取、 者有
所 不 為也、孔子豈不 欲 中道 哉、不 可 必得 、
故思 其次 」也、又曰、「孔子曰、過 我門 而不
入 我室 、我不 憾焉者、其唯郷原乎、郷原徳之賊
也」、而詳 述其所 以為 狂 、与 其所 以 為
郷原 、如 眼見 彼此相反之状態 也、嗟乎、当 春
秋時 、孰非 閹然媚 於世 者 哉、孰非 同 乎流俗
合 乎汚世 者 哉、孰非 居 之似 忠信 、行 之似
廉潔 者 哉、孰非 乱 徳者 哉、而曰 古之人古之
人 、是誰歟、 凉凉、是誰歟、然則狂狷鮮
乎晨星 矣、而郷原即天下滔滔皆是也耳、孔子開
道立 教、特取 其鮮 乎晨星 之狂狷 、而不 願 入
其室 者、天下滔滔之郷原也、宜乎当時受 其教 者
之寥蓼焉、吾亦奚疑哉、鳴呼、道之所 貴在 此矣、
道之所 不 行亦在 此也夫、
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●楊凝斎。清の
儒楊明時、凝斎
と号す、康煕中
進士、其学在誠
を主とす、文定
と謚せらる。
●淳澆。風気の
厚きと薄きと。
●泰伯。周の大
王の長子、王位
を避けて荊蠻に
赴き呉に居る。
●亦た其の云々。
自ら立つ処の何
如によるの意。
●風草上云々。
論語の「君子の
徳は風小人の徳
は草」の語に本
づき、風の草上
を行く如く風化
する義。
●升 堂入 室。
論語に孔子が子
路を評して「由
や堂に升れり未
だ室に入らず」
と高弟をいふ。
●丱角。あげま
き、子供のこと。
●衣鉢。袈裟と
鉄鉢。禅門伝統
の品、道の相続
をいふ。
●大倉の一粒。
国家の倉にある
米一粒の意、微
少に喩ふ。
●論語子路篇に
出づ。
*
●子曰く。論語
陽貨篇に出づ。
●郷原。郷中の
謹愿者、偽君子
といふ如し。
●孟子曰。孟子
尽心下篇に出づ、
下項同じ。
●閹然云々。以
下の語皆孟子尽
心下篇に本づく、
閹然は隠しだて
をする貌。
● 々。独行す
る姿。
●凉々。独立し
て親しまざる貌。
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