山田準『洗心洞箚記』(本文)123 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.2.28

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『洗心洞箚記』 (本文)

その123

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

上 巻訳者註

    やうぎやうさい     じゆんげう 一五一 楊凝斎曰く、「時に淳澆あり、俗に美悪あり。    たいはく  故に泰伯夷に居て化し、孔子は魯に在り、而て七十          そし         ところ  子の外は多く之を譏る。亦た其の自ら立つ者を視る                のみ。もし位を得れば則ち風草上を行く」と、楊氏                  の此の説、必ず感ずる所あつて爾か云へるなり。吾  れ亦た嘗て説あり曰く、孔子は大聖人なり。天下は  大なり、四海は広し、皆其の徳を仰望せざる莫く、  尽く其の道を尊尚せざる莫し。然れどもこれ孔子の  没後、数十百年にして乃ち然り。其の生時に当つて、  孔子より長ぜる者、孔子より貴き者、未だ嘗て一人  の誠に其の徳を仰いで、真に其の道を尊びし者ある                を聞かざるなり。而て其の堂に升り室に入るの諸賢  の出でし如きは、則ち孔子の晩年の事なり。而て其       わか  の孔子より少きこと、大抵三四十もしくは五十を下                  がん  らざるなり。故に孔子四十歳の時、顔子は十歳、子             びん         ぜん  貢は九歳、有子は七歳、閔子は五歳、而て仲弓冉有         くわんかく         さいが  は共に七歳、皆丱角の童なり。冉伯牛・宰我の年歯    さいせき あら  は、載籍に見はれずと雖も、恐らくは数子と相遠か  らざらん。子游、子夏の如きは則ち未だ生れず。而   いはつ     そう  て衣鉢を伝ふるの曾子及び子張は亦た未だ生れざる         わか         にへ  なり。且つ子路少きこと九歳と雖も、贄を執るは葢     おそ    じ よ  し尤も晩し。自余の七十子、三千の徒にして、孔子  より長じ、孔子より貴き者は、未だこれ有らざるな  り。而て七十三千は、其の数多きが如しと雖も、之                   りふ  を天下四海に視れば、則ち特に大倉の一粒のみ。豈  多からんや。夫れ天下の大、四海の広き、而て当時  何為れぞ其の門に入り其の教を受くる者乃ち少きや。  これ吾れ疑ひの心に解けざる所以なり。論孟を熟読               しやくぜん    して、然る後其の疑ひ始めて釈然たり。子曰く、          くみ        きやうけん  「中行を得て之に与せずんば、必ずや狂狷か、狂者                        は進んで取り、狷者は為さざる所有り」と。又た曰     きやうげん          く、「郷原は徳の賊なり」と。孟子曰く、「孔子中                  けん  道を得て之に与せずんば、必ずや狂か、狂者は進       けん  んで取り、者は為さざる所有り。孔子豈中道を欲  せざらんや、必ずしも得べからず、故に其の次を思  ふなり」と。又た曰く、「孔子曰く、我が門を過ぎ                うら  て而て我室に入らざるも、我れ憾みざる者は、それ                        けん  唯だ郷原か。郷原は徳の賊なり」と。而て其の狂  たる所以と、其の郷原たる所以とを詳述し、眼に彼                      あ ゝ  此相反するの状態を見るが如くならしむ。嗟乎、春          たれ えん     こ  秋の時に当つて、孰か閹然世に媚ぶる者に非ざらん         どう  を せ  や、孰か流俗に同じ汚世に合する者に非ざらんや、                    れんけつ  孰か之に居ては忠信に似、之を行うては廉潔に似る  者にあらざらんや、孰か徳を乱る者にあらざらんや。                     く くりやうりやう  而て古の人古の人と曰ふは、これ誰ぞや。凉凉                       すくな  たるは是れ誰ぞや。然らば則ち狂狷は晨星より鮮く、           たう\/  而て郷原は即ち天下滔滔として皆是れなるのみ。孔                    すくな  子道を開き教を立つ、特に其の晨星より鮮きの狂狷  を取る、而て其の室に入るを願はざる者は天下滔滔  たるの郷原なり。宜なるかな当時其の教を受くる者  の寥蓼たるや、吾れ亦た奚んぞ疑はんや。鳴呼道の      こゝ               こゝ  貴き所は此に在り、道の行はれざる所も亦た此に在  るか。    楊凝斎曰、「時有淳澆、俗有美悪、故泰伯居   夷而化、孔子在魯、而七十子之外多譏之、亦視   其自立者而已、若得位則風行草上矣」、楊氏   此説、必有感而云爾也、吾亦嘗有説曰、孔   子大聖人也、天下大也、四海広也、莫皆不   望其徳、莫尽不尚其道、然此孔子没後、数   十百年而乃然、当其生時、長孔子者、貴乎孔   子者、未嘗聞一人誠仰其徳、真尊其道   也、而如其升堂入室之諸賢出焉、則孔子晩年   之事、而其少孔子、大抵不三四十如五十也、   故孔子四十歳之時、顔子十歳、子貢九歳、有子七   歳、閔子五歳、而仲弓冉有共七歳、皆丱角童也、   冉伯牛宰我年歯雖載籍、恐与数子相   遠矣、如子游子夏則未生矣、而伝衣鉢之曾子   及子張亦未生也、且子路雖少九歳、執贄葢尤晩   矣、自余七十子三千之徒、長孔子、貴乎孔子者、   未之有也、而七十三千、雖其数如多、視之平   天下四海、則特大倉一粒而已矣、豈多乎哉、夫天   下之大、四海之広、而当時何為入其門其教者   乃少矣耶、是吾所以疑之不乎心也、熟読論   孟、然後其疑始釈然矣、子曰、「不中行而   与之、必也狂狷乎、狂者進取、狷者有為」   也、又曰、「郷原徳之賊也」、孟子曰、「孔子不   得中道而与之、必也狂乎、狂者進取、者有   所為也、孔子豈不中道哉、不必得、   故思其次」也、又曰、「孔子曰、過我門而不   入我室、我不憾焉者、其唯郷原乎、郷原徳之賊   也」、而詳述其所以為、与其所   郷原、如眼見彼此相反之状態也、嗟乎、当春   秋時、孰非閹然媚於世哉、孰非乎流俗   合乎汚世哉、孰非之似忠信、行之似   廉潔哉、孰非徳者哉、而曰古之人古之   人、是誰歟、凉凉、是誰歟、然則狂狷鮮   乎晨星矣、而郷原即天下滔滔皆是也耳、孔子開   道立教、特取其鮮乎晨星之狂狷、而不   其室者、天下滔滔之郷原也、宜乎当時受其教者   之寥蓼焉、吾亦奚疑哉、鳴呼、道之所貴在此矣、   道之所行亦在此也夫、

楊凝斎。清の
儒楊明時、凝斎
と号す、康煕中
進士、其学在誠
を主とす、文定
と謚せらる。
淳澆。風気の
厚きと薄きと。
泰伯。周の大
王の長子、王位
を避けて荊蠻に
赴き呉に居る。
亦た其の云々。
自ら立つ処の何
如によるの意。
風草上云々。
論語の「君子の
徳は風小人の徳
は草」の語に本
づき、風の草上
を行く如く風化
する義。


堂入室。
論語に孔子が子
路を評して「由
や堂に升れり未
だ室に入らず」
と高弟をいふ。





丱角。あげま
き、子供のこと。




衣鉢。袈裟と
鉄鉢。禅門伝統
の品、道の相続
をいふ。







大倉の一粒。
国家の倉にある
米一粒の意、微
少に喩ふ。





論語子路篇に
出づ。


 *
子曰く。論語
陽貨篇に出づ。
郷原。郷中の
謹愿者、偽君子
といふ如し。
孟子曰。孟子
尽心下篇に出づ、
下項同じ。















閹然云々。以
下の語皆孟子尽
心下篇に本づく、
閹然は隠しだて
をする貌。



々。独行す
る姿。

凉々。独立し
て親しまざる貌。


* 「子曰く」とあるのは、「又た曰く」とあるのが正しいと思われる(管理人)


『洗心洞箚記』(本文)目次/その122/その124

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