●ちんこうほ かじやく わうわい
一六二 程朱当時に在つて、奸人陳公輔・何若・王淮・
こ ざんき ふばう きよく ぎ
陳賈等の讒毀誣妄を免るる能はず。而て曲学偽学の
せうゆ はいまう
禁、天下に詔諭するに至る、何ぞそれ悖罔の極れる
たくま
や。然り而て天定れば、則ち讒毀志を一時に逞しう
ちうめつ
する者、皆虫滅草亡し、而て程朱の学、天地日月と、
いう ●
悠久の光明を争ふ、亦た大ならずや。史臣甞て程学
の禁を論じて曰く、「大抵聖賢の道は、当時に行は
●
れず、而て後世に行はるるもの、理勢然るなり。高
宗但だ孔孟を尊ぶを知つて、而て伊川を尊ぶを知ら
ず、理勢にあらずや。正に孔孟をして当時に在らし
むるも、亦た高宗に尊ばれじ、それ何ぞ怪まんや」
と。史臣嘗て又た朱学の禁を論じて曰く。「王淮は
●たう
唐仲友の故を以て、深く朱子を怨み、謀つて之を沮
せんと欲す。是れに由つて陳賈は鄙夫なり。風旨に
すうじゆん ていき し
趨順し、上章詆毀し、厚く聖賢を誣ゆ。鳴呼、道学
き い あざむ し
を以て詭異と為す、其の天を欺き人を罔ふ、これよ
いう のこ
り尤なるはなし、是れより道学の名、禍を世に貽せ
● この ほろ きやう
り。然りと雖も天の未だ斯文を喪ぼさざる匡人それ
予を如何せんや。吾が道は青天白日の如く、大に世
●くてい はうせん
に明らかなり。一二狗 の謗 する所ならんや」と。
ようん
史臣の論弁は、明快痛切にして余蘊なしと謂ふべし。
まつさつ
然れども奸人の曲学偽学を以て之を抹殺するは何の
よし
故ぞや。吾れ請ふ一言を以て其の由を弁ぜん。夫れ
聖賢の言行は、大いに俗情に反す。俗情とは何ぞ、
●たうせき
盗跖が云ふ所是れのみ。其の言に曰く、「人の情、
目は色を視んと欲し、耳は声を聴かんと欲し、口は
味を察せんと欲し、気は盈たんことを欲す。人は上
びやうそうしさういうくわん
寿百歳、中寿八十、下寿六十、病痩死喪憂患を除き、
其の中口を開いて笑ふは、一月の中四五日に過ぎざ
るのみ。天と地とは無窮なり、人の死は時あり、時
と たく こつ
あるの具を操つて、而て無窮の間に託す、忽然とし
●きき げき
て騏驥の隙を過ぐるに異なることなし。其の志意を
よろこ
説ばし、其の寿命を養ふ能はざる者は、皆道に通ず
●きう す
る者にあらざるなり。丘の言ふ所は、皆吾れの棄つ
ぐう
る所なり」と。これ荘子の寓言なりと雖も、今古貴
賤上下の心口相期する所のもの、斯の数語を出でざ
るなり。而て聖賢の道は則ち之に反す、礼にあらざ
してい
れば視聴言動するなし。而て志気常に内に収まりて
びやうそうしさういうくわん
以て放たず。病痩死喪憂患の中に在りと雖も、皆其
るい
の心を尽すを以て道と為す。未だ嘗て是れを以て累
と為さざるなり。而て常人の口を開いて笑ふ者は、
いんぎ はういつ あ
淫戯放逸の事にあらざるはなし。聖賢之に遭へば決
●しゆくあつさんび
して笑はず。却て蹙 眉以て憂愁悲哀するある者
ざん
多し。常人天地を視て無窮と為し、吾れを視て暫と
さかん
為す。故に欲を血気壮なる時に逞しうするを以て務
と為すのみ。而て聖賢は則ち独り天地を視て無窮と
為すのみならず、吾れを視て亦た以て天地と為す。
うら
故に身の死を恨まず而て心の死を恨む。心死せずん
ば、則ち天地と無窮を争ふ。是の故に一日を以て百
りん しんゑん す ゆ
年となし、心凛乎として深淵に臨むが如し、須臾も
放失せざるなり。故に又た嘗て物を以て志を移さず、
欲を以て寿を引かず。要は人欲を去つて天理を存す
るのみ。彼れは則ち天理を去つて人欲を存するなり。
天理を去つて人欲を存する、是れ乃ち常人の期する
所。則ち人欲を去つて天理を存するの教は安んぞ其
さから
の耳と心とに逆はざるを得んや。彼れ耳と心とに逆
はか
ふを以て、自ら之を揣れば、則ち聖賢の教を以て、
た
必ず人情を矯むと為す。人情を矯むと為せば、則ち
きよく ぎ
其の勢吾れに曲と偽とを教ふと謂はざるを得ざるな
り。これ乃ち曲学偽学の名の由つて起る所なるか。
吁、曲にあらずして而も曲と為し、偽にあらずして
而も偽と為す。曲にして曲にあらずと為し、偽にし
●りよくたうち ぎやくゐ
て偽にあらずと為す、理欲倒置、是非逆為す、豈悲
おさ
しむべきにあらざらんや。程朱一時に抑へられて、
の まこと ● み
而て万世に伸ぶ、固に大なり。然れども其の躬後世
に在らば、則ち亦た何ぞ之を尊ばんや。只だ其れ之
を尊ぶや、死して言はざるを以てなり。もし死すと
わか
雖も理欲を判ち、是非を正すこと生前の如くんば、
いと ししやう
之を厭ひ之を悪み、誰か敢て之を師尚せんや。何を
●くんちん
以て之を知る。君陳に曰く、「凡そ人未だ聖を見ざ
あた
れば、見る克はざる如し。既に聖を見れば、亦た聖
よ なんぢ
に由る克はず。爾それ戒めよや」と。夫れ聖を見ざ
ぎやうぼ
れば則ち仰慕し、見れば則ち其の教に由る能はず。
たゞ
啻に其の教に由る能はざるのみにあらず、必ず奔つ
さ ●なんぢら こ
て避く。故に陽明子亦た曰く、「 們一箇の聖人を
とも すべ
拏へ去り、人と学を講ず。人聖人の来るを見、都て
おそ
怕れて走り了る、如何ぞ講じ得て行はん」と。吾れ
此の二語を以て、其の之を師尚せざるを知るなり。
い
而て後来陽明子の学を以て異学と為す、其れ亦た理
なん まど
勢の免れざる所なり、奚ぞ惑ふに足らんや。
程朱在 当時 、不 能 免 於奸人陳公輔何若王淮
陳賈等之讒毀誣妄 、而曲学偽学之禁、至 詔 諭
於天下 、何其悖罔之極乎、然而天定、則讒毀逞
志一時 者、皆虫滅草亡、而程朱之学、与 天地日
月 、争 悠久光明 、不 亦大 矣乎、史臣甞論 程
学之禁 曰、「大抵聖賢之道、不 行 於当時 、而
行 於後世 者、理勢然也、高宗但知 尊 孔孟 、
而不 知 尊 伊川 、非 理勢 乎、正使 孔孟在 当
時 、亦不 見 尊 於高宗 、夫何怪哉、」史臣嘗
又論 朱学之禁 曰、「王淮以 唐仲友之故 、深怨
朱子 、欲 謀沮 之、由 是陳賈鄙夫、趨 順風旨 、
上章詆毀、厚誣 聖賢 、鳴呼、以 道学 為 詭異 、
其欺 天罔 人、莫 此為 尤、自 是道学之名貽 禍
於世 矣、雖 然天之未 喪 斯文 、匡人其如 予何、
吾道如 青天白日 、大明 於世 、一二狗 所 謗
 哉、」史臣之論弁、可 謂 明快痛切無 余蘊
矣、然奸人以 曲学偽学 抹 殺之 、何故也、吾請
以 一言 弁 其由 、夫聖賢言行、大反 俗情 矣、
俗情者何、盗跖所 云是也耳、其言曰、「人之情、
目欲 視 色、耳欲 聴 声、口欲 察 味、気欲 盈、
人上寿百歳、中寿八十、下寿六十、除 病痩死喪憂
患 、其中開 口而笑者、一月之中不 過 四五日 而
已矣、天与 地無窮、人死者有 時、操 有 時之具 、
而託 於無窮之間 、忽然無 異 騏驥之過 隙也、不
能 説 其志意 、養 其寿命 者、皆非 通 道者 也、
丘之所 言、皆吾之所 棄也、」此雖 荘子之寓言 、
今古貴賤上下之所 心口相期 者、不 出 斯数語 也、
而聖賢之道則反 之、非 礼勿 視聴言動 、而志気
常収 乎内 以不 放、雖 在 病痩死喪憂患之中 、
以 皆尽 其心 為 道矣、而未 嘗為 以 是累 也、
而常人開 口而笑者、莫 非 淫戯放逸之事 也、聖
賢遭 之則決不 笑、却有 蹙 眉、以憂愁悲哀
者多矣、常人視 天地 為 無窮 、視 吾為 暫、故
以 逞 欲於血気壮時 為 務而已、而聖賢則不 独視
天地 為 無窮 、視 吾亦以為 天地 、故不 恨 身
之死 、而恨 心之死 矣、心不 死、則与 天地 争
無窮 、是故以 一日 為 百年 、心凛乎如 臨 深
淵 、不 須臾放失 也、故又嘗不 以 物移 志、不
以 欲引 寿、要去 人欲 存 天理 而已矣、彼則去
天理 存 人欲 也、去 天理 存 人欲 、是乃常人
之所 期、則去 人欲 存 天理 之教、安得 不 逆
其耳与 心哉、彼以 逆 耳与 心、自揣 之、則以 聖
賢之教 、必為 矯 人情 、為 矯 人情 、則其勢不
得 不 謂 教 吾曲与 偽也、此乃曲学偽学之名、所
由起 也歟、吁、非 曲而為 曲、非 偽而為 偽、曲
而為 非 曲、偽而為 非 偽、理欲倒置、是非逆為、
豈非 可 悲哉、程朱抑 乎一時 、而伸 乎万世 、固
大矣、然其躬在 後世 、則亦何尊 之哉、只其尊 之
也、以 死而不 言也、如雖 死、判 理欲 、正 是非
如 生前 、厭 之悪 之、誰敢師 尚之 哉、何以知
之、君陳曰、「凡人未 見 聖、若 不 克 見、既見
聖、亦不 克 由 聖、爾其戒哉、」夫不 見 聖則仰慕
焉、見則不 能 由 其教 、非 啻不 能 由 其教 、
必奔而避焉、故陽明子亦曰、「 們拏 一箇聖人
去、与 人講 学、人見 聖人来 、都怕走了、如何講
得行、」吾以 此二語 、知 其不 師 尚之 也、而後
来以 陽明子之学 為 異学 、其亦理勢之所 不 免也、
奚足 惑哉、
|
●陳公輔。字は
国臣、政和三年
登第、諌官とな
り、礼部侍郎に
至る。文集二十
巻あり。其他何
若、王淮、陳賈
等皆当時の吏儒
にして朱子を誹
謗す。
●程学。程伊川
の学。
●高宗。南宋の
初主。
●唐仲友。字は
輔仁、宏詞科に
登第し説斎と号
す。朱子に快か
らず。
●論語子罕篇に
見ゆ。
●狗 。犬と豚、
小人に喩ふ
●盗跖云々。荘
子盗跖篇に出づ。
●騏驥云々。駿
馬が戸の隙を駈
け通る如し。
●丘。孔子の名。
● は鼻茎なり、
鼻の上に皺をよ
せ、両の眉をあ
つめて心配する
姿。
●理欲倒置。欲
を正とし、逆に
天理を曲とす。
●其の躬云々。
程朱がもし現代
にをれば人々は、
矢張之を尊ばぬ
であらうとの意。
●君陳。書経に
君陳篇あり。
●伝習録黄省会
所録に見ゆ。拏
は引き捉へる意、
聖人を看板にし
て道を教へる態
度の非なるを説
く。
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