山田準『洗心洞箚記』(本文)134 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.4.2

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『洗心洞箚記』 (本文)

その134

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

上 巻訳者註

一六三 道の要は、陽明先生より前は未だ天下に明か               ならず。而て陽明先生を経て、始めて天下に明かな  り。吾れ何を以て之を知るや。世に称する所の朱学     せつせいけん りくかしよ            せつ  の純儒薛敬軒、陸稼書二子の言を以て之を知る。薛         れんらくくわんびん  氏曰く、「道は濂洛関 に至つて明らかなり、今                いづく  其の書存すと雖も、吾れ道の要何に在るを知らず」                まゝ   きず  と。而て其の学を語るや、未だ間支離の疵あるを免  る能はざるなり。陸氏の学を論ずるは、則ち却つて            たいきよく    これ しんべう  知行並進たり。而て其太極論は、諸を深渺に求めず、           いかんちよくせつ  かう       へい  諸を吾が心に求め、易簡直截、更に向来支離の病無      おも  し。吾れ意ふ、薛氏の学徳、未だ必ずしも陸氏の下  に在らず。而て陸氏の識見亦た未だ必ずしも薛氏の  上に出でざるなり。而て薛氏要無きを嘆ずること彼             にぎ  の如し。陸氏の語、要を握ること此の如し。則ち陸                 いん  氏豈陽明先生に開明せられ、而て陰に要を良知に得  るものにあらざらんや。然らずんば則ち薛氏嘗て要  なきの嘆あるべからず、而て其の支離の疵を免るる  は、当に陸氏の先に在るべし。故に曰く。道の要は、  陽明先生より前は、未だ天下に明かならず、而て陽       明先生を経て始めて天下に明かなりと。殊に其の太             極論を推究するに、他れ特に太極の二字を以て来つ                  こゝろ   また  て良知の二字に易へしのみ。故に今試みに復良知の                         二字を以て来つて太極の二字に易ふれば、則ち依然 えうかう           しやう  姚江の口角筆勢にして、而て紫陽末派の辞気にあら            そんたう  ざるなり。明眼の君子孫湯の如きは、定めて当に我          しよは  れに先だつて之を破すべし。故に陸氏、姚江を攻        のこ           だん    やうしやいんわう  撃して余力を遺さずと雖も、断じて之を陽朱陰王と                        りく  謂うて可なり。人もし然りと為さずば、則ち只だ陸  ろうき  隴其の学と謂ふも可なり。朱学と謂ふは不可なり。          せつ        さかのぼ  きよろ  朱学の純なるは、薛氏及び胡敬斎なり。遡つて許魯               ち か       りよばん  斎・真西山の如きは、或は庶幾からん。其の他呂晩  そん   村・張楊園諸先輩の如きは、皆亦た陸氏の類なり。               やす  人もし心を平らかにし、気を易くして、其の諸家の            きは            書を読み、以て其意を究むれば、則ち当に吾れ左右  たん  袒の心あらざるを知るべきなるか。   道之要、前乎陽明先生、未於天下、而経   於陽明先生、始明乎天下矣、吾何以知之、以   世所称朱学純儒薛敬軒陸稼書二子之言之、   薛氏曰、「道至濂洛紺而明、今其書雖存、   吾不道之要何在、」而其語学未間   有支離之疵也、陸氏論学、則却為知行竝進、   而其太極論、不諸深渺、而求諸吾心、易   簡直截、更無向来支離之病焉、吾意薛氏之学徳、   未必在於陸氏之下、而陸氏之識見、亦未必出   於薛氏之上也、而薛氏嘆要如彼、陸氏語握   要如此、則陸氏豈非明於陽明先生、而陰得   要于良知矣耶、不然則薛氏嘗不   要之嘆、而其免支離之疵、当於陸氏之先   矣、故曰、道之要、前乎陽明先生、未於天   下、而経於陽明先生、而始明乎天下也、殊   推究其太極論、他特以太極二字来易良知二   字耳、故今試復以良知二字来易太極二字、   則依然姚江之口角筆勢、而非紫陽末派之辞気   也、明眼之君子如孫湯、定当破之   矣、故陸氏雖撃姚江余力、断謂之   陽朱陰王可也、人如不然、則只謂陸隴其学   可矣、謂朱学不可、朱学之純、薛氏及胡敬斎、   遡如許魯斎真西山或庶幾焉、其他如呂晩村張   楊園諸先輩皆亦陸氏之類也、人如平心易気、   読其諸家之書、以究其意、則当吾不   左右袒之心也歟、

薛敬軒。明初
の大儒薛前
出。
陸稼書。清の
陸隴其、字は稼
書、又三魚、康
煕中の進士、御
史に累官す、清
廉直諫、清献と
謚せらる、三魚
堂集あり、専ら
程朱を奉ず。
濂洛関。濂
は周濂渓、洛は
二程子洛陽に居
る、関は張横渠、
関中に居る、
は朱子福建即ち
省の人。
支離。心と事
物と離れて、学
に要領を失ふこ
と。
太極論。周濂
渓に太極図説あ
り。
向来。従来。















姚江。王子又
は王子の学を称
す。
紫陽。本と山
名なり。朱子学
堂を建て紫陽書
院といふ、末派
は末輩。
孫湯。孫は孫
奇逢、清初の大
儒、節を守りて
仕へず、孫夏峯
文集あり、湯は
湯斌、清菴と号
す夏峯に学び学
を論する公允、
王学に傾倒す、
湯子遺書あり。
破。伺ひ、
看破る。
陽朱陰王。表
面は朱子学を守
り、裏面に於て
王子の学を奉ず
る者を云ふ。
隴其。隴稼書
の名。
胡敬斎は明初
の胡居仁、許魯
斎は元の大儒許
衡、真西山は宋
の慶元中進士に
及第し、参知政
事に至る、名は
徳秀、其学朱子
を宗とし、大学
衍義の著最も著
はる。
呂晩村。清初
の儒者呂留良、
四書講義の著あ
り。
張楊園。清初
の儒者、張履祥、
前出左右袒。袒は
肌の衣を脱ぐ、
史記呂后記に周
勃が「呂氏の為
めにする者は右
袒せよ、劉氏の
為めにする者は
左袒せよ」と令
せるに本づき、
賛成する場合を
左袒といふ。


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