一六三 道の要は、陽明先生より前は未だ天下に明か
へ
ならず。而て陽明先生を経て、始めて天下に明かな
り。吾れ何を以て之を知るや。世に称する所の朱学
●せつせいけん ●りくかしよ せつ
の純儒薛敬軒、陸稼書二子の言を以て之を知る。薛
●れんらくくわんびん
氏曰く、「道は濂洛関 に至つて明らかなり、今
いづく
其の書存すと雖も、吾れ道の要何に在るを知らず」
まゝ● きず
と。而て其の学を語るや、未だ間支離の疵あるを免
る能はざるなり。陸氏の学を論ずるは、則ち却つて
●たいきよく これ しんべう
知行並進たり。而て其太極論は、諸を深渺に求めず、
いかんちよくせつ ●かう へい
諸を吾が心に求め、易簡直截、更に向来支離の病無
おも
し。吾れ意ふ、薛氏の学徳、未だ必ずしも陸氏の下
に在らず。而て陸氏の識見亦た未だ必ずしも薛氏の
上に出でざるなり。而て薛氏要無きを嘆ずること彼
にぎ
の如し。陸氏の語、要を握ること此の如し。則ち陸
いん
氏豈陽明先生に開明せられ、而て陰に要を良知に得
るものにあらざらんや。然らずんば則ち薛氏嘗て要
なきの嘆あるべからず、而て其の支離の疵を免るる
は、当に陸氏の先に在るべし。故に曰く。道の要は、
陽明先生より前は、未だ天下に明かならず、而て陽
へ
明先生を経て始めて天下に明かなりと。殊に其の太
か
極論を推究するに、他れ特に太極の二字を以て来つ
こゝろ また
て良知の二字に易へしのみ。故に今試みに復良知の
か
二字を以て来つて太極の二字に易ふれば、則ち依然
●えうかう ●しやう
姚江の口角筆勢にして、而て紫陽末派の辞気にあら
●そんたう
ざるなり。明眼の君子孫湯の如きは、定めて当に我
●しよは
れに先だつて之を破すべし。故に陸氏、姚江を攻
のこ だん ●やうしやいんわう
撃して余力を遺さずと雖も、断じて之を陽朱陰王と
●りく
謂うて可なり。人もし然りと為さずば、則ち只だ陸
ろうき
隴其の学と謂ふも可なり。朱学と謂ふは不可なり。
せつ ● さかのぼ きよろ
朱学の純なるは、薛氏及び胡敬斎なり。遡つて許魯
ち か ●りよばん
斎・真西山の如きは、或は庶幾からん。其の他呂晩
そん ●
村・張楊園諸先輩の如きは、皆亦た陸氏の類なり。
やす
人もし心を平らかにし、気を易くして、其の諸家の
きは ●
書を読み、以て其意を究むれば、則ち当に吾れ左右
たん
袒の心あらざるを知るべきなるか。
道之要、前乎陽明先生、未明於天下、而経
於陽明先生、始明乎天下矣、吾何以知之、以
世所称朱学純儒薛敬軒陸稼書二子之言知之、
薛氏曰、「道至濂洛紺而明、今其書雖存、
吾不知道之要何在、」而其語学未能免間
有支離之疵也、陸氏論学、則却為知行竝進、
而其太極論、不求諸深渺、而求諸吾心、易
簡直截、更無向来支離之病焉、吾意薛氏之学徳、
未必在於陸氏之下、而陸氏之識見、亦未必出
於薛氏之上也、而薛氏嘆無要如彼、陸氏語握
要如此、則陸氏豈非開明於陽明先生、而陰得
要于良知者矣耶、不然則薛氏嘗不可有無
要之嘆、而其免支離之疵、当在於陸氏之先
矣、故曰、道之要、前乎陽明先生、未明於天
下、而経於陽明先生、而始明乎天下也、殊
推究其太極論、他特以太極二字来易良知二
字耳、故今試復以良知二字来易太極二字、
則依然姚江之口角筆勢、而非紫陽末派之辞気
也、明眼之君子如孫湯、定当先我破之
矣、故陸氏雖攻撃姚江不遺余力、断謂之
陽朱陰王可也、人如不為然、則只謂陸隴其学
可矣、謂朱学不可、朱学之純、薛氏及胡敬斎、
遡如許魯斎真西山或庶幾焉、其他如呂晩村張
楊園諸先輩皆亦陸氏之類也、人如平心易気、
読其諸家之書、以究其意、則当知吾不有
左右袒之心也歟、
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●薛敬軒。明初
の大儒薛、前
出。
●陸稼書。清の
陸隴其、字は稼
書、又三魚、康
煕中の進士、御
史に累官す、清
廉直諫、清献と
謚せらる、三魚
堂集あり、専ら
程朱を奉ず。
●濂洛関。濂
は周濂渓、洛は
二程子洛陽に居
る、関は張横渠、
関中に居る、
は朱子福建即ち
省の人。
●支離。心と事
物と離れて、学
に要領を失ふこ
と。
●太極論。周濂
渓に太極図説あ
り。
●向来。従来。
●姚江。王子又
は王子の学を称
す。
●紫陽。本と山
名なり。朱子学
堂を建て紫陽書
院といふ、末派
は末輩。
●孫湯。孫は孫
奇逢、清初の大
儒、節を守りて
仕へず、孫夏峯
文集あり、湯は
湯斌、清菴と号
す夏峯に学び学
を論する公允、
王学に傾倒す、
湯子遺書あり。
●破。伺ひ、
看破る。
●陽朱陰王。表
面は朱子学を守
り、裏面に於て
王子の学を奉ず
る者を云ふ。
●隴其。隴稼書
の名。
●胡敬斎は明初
の胡居仁、許魯
斎は元の大儒許
衡、真西山は宋
の慶元中進士に
及第し、参知政
事に至る、名は
徳秀、其学朱子
を宗とし、大学
衍義の著最も著
はる。
●呂晩村。清初
の儒者呂留良、
四書講義の著あ
り。
●張楊園。清初
の儒者、張履祥、
前出。
●左右袒。袒は
肌の衣を脱ぐ、
史記呂后記に周
勃が「呂氏の為
めにする者は右
袒せよ、劉氏の
為めにする者は
左袒せよ」と令
せるに本づき、
賛成する場合を
左袒といふ。
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