山田準『洗心洞箚記』(本文)143 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.5.17

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『洗心洞箚記』 (本文)

その143

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

上 巻訳者註

         つか 一七二 吾が輩書を束ねて之を見ず。之を見ると雖も   くわ           しんとく  一過して而て忘れ了る。況や心得躬行に於てをや、   いづく        およ    じよていけい  又安んぞ古人に逮ばんや。徐禎卿家に一書を蓄へず、              而て通せざる所なし。二十三にして死す、而て名・   しりん     やうじゆんきつ        ろ  しけい  士林に満てり。楊循吉・三十有一、而て蘆を支y山          さう         そく しんせん  下に結び、父母の葬を治め、墓側に寝苫す。詔あり                そ   は      そん  て直言を求むる時に当つて、疏を馳せて建文帝の尊  がう  ふく  号を復せんことを謂へり。此の二子文人にして儒者                  びん      ふ  にあらずと雖も、其の書に通ずるの敏、道を履むの       もはん           べつし  正、人の模範と為る。必ず蔑視する勿れ。吾が交は                         る所の人にして、徐に類する者あり、今は則ち亡し。                     而て楊に比すべき者は、未だ其の人に遇はざるなる  かな。   吾輩束書不之、雖之一過而忘了、況於   心得躬行、又安逮古人、徐禎卿家不一書、   而無通、二十三而死、而名満士林、楊   循吉三十有一、而結蘆支y山下、治父母葬、   寝苫墓側、当詔求直言、馳疏謂建文   帝尊号、此二子雖文人而非儒者、其道書之敏、   履道之正、為人模範矣、必勿蔑視焉、吾所   交之人、有於徐、今也則亡、而比楊者、   未其人也夫、



書。書物を
高閣に束ぬ。

徐禎卿。明の
弘治中の道士。
国子博士たり。
詩に長ず。
二十三。一説
に三十三ともい
ふ。
楊循吉。明の
成化中の道士。
詩文に長ず、多
病にして早く官
を退く寿八十九。

寝苫。苫の上
に寝る。喪に居
る時の礼。

建文帝。明の
第二代の天子。
成祖叔父を以て
簒立す。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その142/その144

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