人
一七七 或問ふ、「朱子は其の学徳才能聖人と既に相
せう
近きか」と。吾れ不肖、何ぞ敢て之を知るに足らん。
●ししゆく はん
然れども昔賢朱子に私淑する人の説を以て之を判ぜ
●
ん。黄陶奄曰く、「朱子の四書集註の中、未だ嘗て
へい けいぎ
病無からず。之を要するに後学は軽議すべからず。
●り と かん おう うち か
今人李・杜・韓・欧の諸集を読む。其の中詩文の佳
た
なるもの、固より挙ぐるに勝へず。然り而て字句の
きず ●わづら
瑕と、文義の理を累はすものとは、亦た未だ嘗てこ
おほ
れ無からず。終に此れを以て其の大美を掩はず。況
び ひら まう
や朱子千聖の為に微を発き、盲者をして視るを得、
ろう
聾者をして聴くを得しめたるをや。其の功固より孟
たと ●へんたいゆう ●こう
子の下に在らず。縦ひ偏滞融せざる処ありとも、功
くわ じゆん と
過独り相準ずべからざらんや」と。其の経を釈くの
功、孟子の下に在らずと曰へるは則ち其の学徳の高
き、坐して知るべし。陶奄又た曰く、「大抵天下の
しき たん
事に任ずるは、識以て之に主となり、胆以て之を輔
な
け、強力以て之を済す、一を欠ぐも不可なり。我が
●
朝の方正学は、是れ何等の骨力ぞ、何等の学術ぞ。
おう
真に聖人の徒なり。惜しむらくは変に応ずるの才、
か
是れ其の少ぐ所。其れをして平世に処り、中材以上
み けんぶん
の君に遇はしむれば、定めて観るべきあらん。建文
な ●てい ●
の時如何ぞ事を済さん。因つて思ふ、程正叔、朱元
くわい
晦・建文の時に処らば、方正学の如きに過ぎざるの
か
み」と。其の方正学が変に応ずるの才、是れ其の少
ぐ所を惜むと謂ひ、而て又た以て朱子建文の時に処
らば、方正学の如きに過ぎざるのみと為す、則ち其
そ ●すうてい
の材能の素又た坐して推すべし。陶奄崇禎の末に在
じゆん
つて、国難に殉ず。而て是れ朱学の徒と雖も、其の
うら
心殊に儒将に陽明先生の如きもの無きを恨む。故に
げんじゆつ
其の辞気の間、悲壮感慨、豈言述すべけんや。
或問、「朱子其学徳才能、与 聖人 既相近矣耶」、
吾不肖、何敢足 知 之、然以 昔賢私 淑朱子 人
之説 判 之、黄陶奄曰、「朱子四書集註中、未
嘗無 病、要 之後学不 可 軽議 、今人読 李杜
韓欧諸集 、其中詩文佳者、固不 勝 挙、然而字
句之瑕、与 文義之累 理者 、亦未 嘗無 之、終
不 以 此掩 其大美 、況朱子為 千聖 発 微、使
盲者得 視、聾者得 聴、其功固不 在 孟子下 、
縦有 偏滞不 融処 、功過独不 可 相準 耶」其
曰 釈 経之功、不 在 孟子下 、則其学徳之高、
坐可 知矣、陶奄又曰、「大抵任 天下事 、識以
主 之、胆以輔 之、強力以済 之、欠 一不可也、
我朝方正学、是何等骨力、何等学術、真聖人之
徒也、惜応 変之才、是其所 少、使 其所 平世 、
遇 中材以上之君 、定有 可 観、建文時如何済
事、因思程正叔朱元晦処 建文時 、不 過 如 方
正学 耳、」其謂 惜 方正学応 変之才、是其所
少、而又以為 朱子処 建文時 、不 過 如 方正
学 耳 、則其材能之素、又坐可 推矣、陶奄在
崇禎之末 、殉 国難 、而雖 是朱学之徒 、其心
殊恨 無 儒将如 陽明先生 者 焉、故其辞気之間、
悲牡感慨、豈可 言述 也哉、
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●私淑。後世に
生れた者が、間
接に其の教をよ
くし修める、孟
子に出づ。
●黄陶奄。明末
の儒者。前出。
●唐の詩聖李白、
杜甫及び文豪韓
愈、及び宋の名
臣にして名文家
たる欧陽脩を云
ふ。
●累はす云々。
道理を妨げる。
●偏滞。偏固執
滞して、道理が
ほどけきらぬ。
●功過云々。功
と過ちとが平準
し相当する。
●方正学。明初
の大儒、名は孝
孺、読書の廬を
正学といふ、建
文帝を輔け、成
祖の纂位に屈せ
ず、節に死す。
●程正叔。程伊
川。
●朱元晦。朱子。
●崇禎。明末思
宗の年号。
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