山田準『洗心洞箚記』(本文)148 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.6.3

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『洗心洞箚記』 (本文)

その148

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

上 巻訳者註

      一七七 或問ふ、「朱子は其の学徳才能聖人と既に相           せう  近きか」と。吾れ不肖、何ぞ敢て之を知るに足らん。           ししゆく         はん  然れども昔賢朱子に私淑する人の説を以て之を判ぜ      ん。黄陶奄曰く、「朱子の四書集註の中、未だ嘗て  へい              けいぎ  病無からず。之を要するに後学は軽議すべからず。    り  と  かん  おう                うち      か  今人李・杜・韓・欧の諸集を読む。其の中詩文の佳                なるもの、固より挙ぐるに勝へず。然り而て字句の  きず      わづら  瑕と、文義の理を累はすものとは、亦た未だ嘗てこ                    おほ  れ無からず。終に此れを以て其の大美を掩はず。況           び  ひら    まう  や朱子千聖の為に微を発き、盲者をして視るを得、  ろう  聾者をして聴くを得しめたるをや。其の功固より孟          たと へんたいゆう        こう  子の下に在らず。縦ひ偏滞融せざる処ありとも、功  くわ     じゆん                 過独り相準ずべからざらんや」と。其の経を釈くの  功、孟子の下に在らずと曰へるは則ち其の学徳の高  き、坐して知るべし。陶奄又た曰く、「大抵天下の         しき         たん  事に任ずるは、識以て之に主となり、胆以て之を輔            け、強力以て之を済す、一を欠ぐも不可なり。我が      朝の方正学は、是れ何等の骨力ぞ、何等の学術ぞ。                   おう  真に聖人の徒なり。惜しむらくは変に応ずるの才、        是れ其の少ぐ所。其れをして平世に処り、中材以上                み             けんぶん  の君に遇はしむれば、定めて観るべきあらん。建文                  てい    の時如何ぞ事を済さん。因つて思ふ、程正叔、朱元  くわい  晦・建文の時に処らば、方正学の如きに過ぎざるの                          み」と。其の方正学が変に応ずるの才、是れ其の少  ぐ所を惜むと謂ひ、而て又た以て朱子建文の時に処  らば、方正学の如きに過ぎざるのみと為す、則ち其                  すうてい  の材能の素又た坐して推すべし。陶奄崇禎の末に在        じゆん  つて、国難に殉ず。而て是れ朱学の徒と雖も、其の                    うら  心殊に儒将に陽明先生の如きもの無きを恨む。故に               げんじゆつ  其の辞気の間、悲壮感慨、豈言述すべけんや。   或問、「朱子其学徳才能、与聖人既相近矣耶」、   吾不肖、何敢足之、然以昔賢私淑朱子人   之説之、黄陶奄曰、「朱子四書集註中、未   嘗無病、要之後学不軽議、今人読李杜   韓欧諸集、其中詩文佳者、固不挙、然而字   句之瑕、与文義之累理者、亦未嘗無之、終   不此掩其大美、況朱子為千聖微、使   盲者得視、聾者得聴、其功固不孟子下、   縦有偏滞不融処、功過独不相準耶」其   曰経之功、不孟子下、則其学徳之高、   坐可知矣、陶奄又曰、「大抵任天下事、識以   主之、胆以輔之、強力以済之、欠一不可也、   我朝方正学、是何等骨力、何等学術、真聖人之   徒也、惜応変之才、是其所少、使其所平世、   遇中材以上之君、定有観、建文時如何済   事、因思程正叔朱元晦処建文時、不方   正学耳、」其謂方正学応変之才、是其所   少、而又以為朱子処建文時、不方正   学、則其材能之素、又坐可推矣、陶奄在   崇禎之末、殉国難、而雖是朱学之徒、其心   殊恨儒将如陽明先生焉、故其辞気之間、   悲牡感慨、豈可言述也哉、



私淑。後世に
生れた者が、間
接に其の教をよ
くし修める、孟
子に出づ。

黄陶奄。明末
の儒者。前出。

唐の詩聖李白、
杜甫及び文豪韓
愈、及び宋の名
臣にして名文家
たる欧陽脩を云
ふ。

累はす云々。
道理を妨げる。



偏滞。偏固執
滞して、道理が
ほどけきらぬ。

功過云々。功
と過ちとが平準
し相当する。






方正学。明初
の大儒、名は孝
孺、読書の廬を
正学といふ、建
文帝を輔け、成
祖の纂位に屈せ
ず、節に死す。



程正叔。程伊
川。

朱元晦。朱子。







崇禎。明末思
宗の年号。


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