山田準『洗心洞箚記』(本文)151 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.2.27/3.2最新

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大塩の乱関係史料集目次


『洗心洞箚記』 (本文)

その151

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

上 巻訳者註

    はうなんいん     たうこ  りくじぎよ 一八〇 彭南先生曰く、「当湖の陸侍御・清徳名儒  を以て、書を著はし学を講じ天下之を宗とす。余三                          魚聖文集を読み、其の講ずる所を見るに、専ら王文     はいげき  成公を排撃するを以て事と為す。意は朱を尊ぶに在  るなり。朱を尊ぶは是なり、文成を排撃するは則ち            ひら           甚し。既に其の学術を闢き、復た其の功業を議し、             はいくわい  みんき  さうらん  且つ坐せしむるに風俗を敗壊し、明季の喪乱を致す       あゝ          どうしんがいもく  を以てす。吁、又た甚し。余覚えず恫心駭目す。既  に深く文成の為めに痛み、而て転じて侍御の為めに                 がうり  惜む。文成入手の工夫は、朱子と亳釐の別あり。故                  ていご  に其の格物を訓ずるや、実に朱子と牴牾す。其の帰                する所に至つては、同じく孔・曾・思・孟の微言を          伝へ、同じく濂洛の淵源を究む。文成は良知の宗旨   かゞ       けいせつちよめい  を掲げ出す、警切著明、朱子が居敬窮理の学に於て、  未だ曾て互に相唱提すべからずんばあらざるなり。                   すう  文成の学は、之を当時に伝ふるもの、雛文荘の若き、                  すゐ       きず  欧陽文荘の若き、羅文恭の若き、皆粋然として疵無         そ   ろくちゆうせつ さいちゆうじよう もううんほ くわうせき  きものなり。沿うて鹿忠節・蔡忠襄・孟雲浦・黄石  さい                 しふざんりう  斎に及んでは、謹みて宗旨を守る。而て山劉先生    せんようせんでき       そ        いうみん  は、闡揚洗滌し、尤も厥の成を集め、実に有明一代、      ふよく            道統を扶翼し、名教を主持するの帰を為せり。而て                  ●      ●  之を近くして文成を宗述するもの、孫蘇門・李二曲・ くわうりしゆう         おほむ   しゆうじすゐみつ  黄黎州先生の若き、率ね皆修持邃密、経済通明なり。           へんよく  侍御尽く挙げて之を貶抑せんと欲す、又た能はざる                    ちんせいらん がく  なり。且つ侍御の宗とする所のものは、陳清瀾の学  ほうつうべん        おうせんさい  蔀通弁と、近今(三字欠)応潜斎・張武承の言との  如きに過ぎざるのみ。彼の生平行誼を以て、前哲に  視れば何如と為すや。余の深く侍御の為めに惜むも                      ちんひ  のは此れなり。三魚堂集出でてより、奉じて枕秘と          くわうこ ほしいまゝ   くわぼう たくま  なすもの益々復た簧鼓を恣にし、戈矛を逞しうし、  文成を排撃するに非ざれば功を為さざるものの若し。           ほと            つひ  然れども文成の緒言幾んど絶え、而て朱子の学も卒  に未だ明らかなるあらざるなり。是れ豈侍御の初志            ほろ  ならんや。鳴呼、良知喪びて、而て害の世道人心に  あた        し        たゞ  中るもの深し。即ち強ひて之を縄すに居敬窮理を以       しきさう       すくな  てす。其の色荘口講たらざる者鮮し」と。此れ南        しやくきろく  先生著す所の釈毀録の自叙なり。而て雛文荘は、謂      くわく  はゆる東廓先生なり。諱は守益、字は謙之。欧陽文  荘は、謂はゆる南野先生なり。諱は徳、字は崇一。          ねん  羅文恭は謂はゆる念菴先生なり。諱は洪先、字は達          けいぜん            ぼう  夫。鹿忠節、諱は継善、字は伯順。蔡忠襄、諱は懋  とく      ゐりつ        くわり  徳、字は維立。孟雲浦、諱は化鯉、字は叔龍。黄石              しふざんりゆう  斎、諱は道周、字は幼元。山劉先生は、謂はゆる  念台なり、諱は宗周、字は起東。孫蘇門、諱は奇逢、             よう  字は啓泰。李二曲、諱は容、字は中孚。黄黎洲、諱   そうぎ      たいちう          さいせき  へいえう  は宗羲、字は太冲。其の道徳功業は、皆載籍に炳燿       せり、閲みする者之を知らん。然り而て載籍浩瀚に            まれ       えうこう  して、閲みする者亦た罕なり。況や学の姚江に属す                     われ  みんし  るものは、禁じて之を称せざるをや。故に予・明史・  ●     ●なんきやうえきし   明史藁・南疆繹史及び学按等の書に就き、諸君の道  徳功業を採りて略述す。小子之を聴け。東廓先生は、  天姿純粋、家に居りて孝友を以て称せらる。陽明子        しんがう          あづ  の門に出づ。宸濠反す、陽明子の軍事に与かる。嘉        靖三年、世宗興献帝本生の称を去らんと欲す。東廓   そかん              かうりやく  疏諌して旨に忤ひ、詔獄に下されて拷掠せられ、遂    かほう            に遐方に謫せらる。此に於て淫祠を廃し、復初書院  を建て、学者と其の間に講授す。陽明子卒すと聞き、  ゐ  つく     しんさう          せんば  位を為つて哭し、心喪に服す。召されて司経局洗馬                かく  と為る。東廓太子幼にして未だ閣に出づる能はざる        くわくたう   を以て、乃ち霍韜と、聖功図を上つて以て諷諌す。     ぼうせん       ほと  帝以て謗と為し、幾んど罪を得。九廟災あり。東  廓直言す、帝大に怒り、職を落して帰らしむ。陽明                        子嘗て之を称して曰く「有れども無きが若く、実つ     むな                 けんし  れども虚しきが若く、犯せども而かも校せず、謙之                     之に近し」と。其の子善、孫徳涵・徳溥等、皆良知  の学を守り、家声を落さず。      はじ             かん    ゆ  南野先生甫めて冠して郷試に挙げられ、州に之き、                      そし  陽明子に従ふ。嘉靖二年、策間陰に陽明子に詆る。                     おも  南野・魏良弼等と直ちに師訓を発し、意に阿ねる所                        ちよ  なし。第に登り、官を歴て礼部尚書と為る。時に儲      むな  位久しく虚し、帝邪臣の説に惑ひ、儲を建つること    い        こんせい          かん/\  を諱む。南野懇請す。且つ南野事に遇ひ侃侃たり。                 をのゝ  或は利害に当つて、衆相顧みて色戦く、南野意気自         き う をんすい  如たり。而て器宇温粋、学実践を務め、大に陽明子         せん  の良知の宗旨を闡明せり。  念菴先生幼にして、    羅倫の人と為りを慕ふ。年十五、陽明子の伝習録を  読みて之を好み、同邑の李中に師事し、其の学を伝                    きう  ふ。嘉靖八年、進士第一に挙げらる。外舅喜んで曰      むこ  く、吾が壻大名を成すと。念菴曰く、儒者の事業は、                       いづく  此れより大なるものあり。此れ三年に一人あり、安                       せん  んぞ喜ぶに足らんやと。親に事へて孝。父の喪に苫 くわいそ し             つい   ゆう  塊蔬食し、室に入らざるもの三年。継で母の憂に遭  ふ、亦た之の如し。起復され事を言ふ、帝怒る。念  菴帰り、益々陽明子の学を求む。淡泊に甘んじ、寒                      へんさい  暑に練る。天文・地志・礼楽・典章・河渠・辺塞・  せんじん            およ  戦陳・攻守より、下陰陽算数に逮ぶまで、精究せざ     る靡し。人才・吏事・国計・民情に至るまで、悉く        しはう  意を加へて諮訪す。曰く、苟くも其の任に当らば、                     皆吾が事なりと。流寇吉安に入る。主者措を失ふ。       くわく               為めに策を画して戦守す。寇引き去る。素と唐順之                と善し、順之召に応じ、之を挽いて出さんと欲す。 げんすう             厳崇同郷の故を以て、辺才を仮して起用せんと擬す、   りきじ  皆力辞す。其の学を論ずるに曰く、儒者の学は経世  に在り、而て無欲を以て本と為すと。山中に石洞あ           かや  ふ  り、旧と虎穴為り。茅を葺きて之に居る、命じて石              たふ  蓮と曰ふ。客を謝して、一榻に黙坐し、三年戸を出       かうけう      ばしん  でず。主事項喬、巡撫馬森共に其の家を築かんこと               こうがく  を請ふ。念菴皆辞す。志士は溝壑に在るを忘れざる  を以て期することを為す。隆慶の初め卒す。  鹿     たんほうきんかく  忠節、端方謹必ず聖賢と為るの志あり。而て孫蘇             門と友となり、交を楊忠愍の祠下に定む、皆慨然と  して身を殺すの志あり。万暦癸丑の進士たり。遼左 しやう       ど               餉を欠ぐ、帑を請ふ、疏皆行はれず。広東金花銀を  おく                さつ  解りて至るに会ふ。忠節司農と議し、箚して大倉に  納れ、転じて遼左に発し、而て後上聞す、上怒り、          てう  級を降し、外任に調す。忠節疾を移して去る。金花  銀とは国初以て各道の緩急に備へ、倶に大倉に解る。           おく  其の後改めて内府に解る。宮中視て私銭と為す、故  に帝怒れるなり。光宗位に御し、官を復さる。天啓  元年、遼陽陥る。才を以て兵部職方主事に改めらる。               こゝろ  閣臣孫承宗兵部の事を理し、心を推して之に任ず。     えつし  関門を閲視するに及んで、忠節を以て従へ、出でて    とく       さんくわく          ひら  師を督す。復た表して贊画と為す。地を拓くこと四  百、城堡を収復すること数十。承宗之に倚ること左  右の手の若し。関に在ること四年、承宗事を謝す、  忠節亦た告帰す。崇禎元年、起復さる。再び請うて  帰る。九年七月、清兵定興を攻む。忠節江村に在り、    まう      まも  父に白し入つて城を扞らんと請ふ。父之を許す、里       せつ  がく  居せる知州薛一等と共に守る。六日城破る。忠節  屈せずして之に死す。家人奔つて其の父に告ぐ。父      あ ゝ  曰く、嗟乎、吾が児素と身を以て国に許す、今果し  て死す、吾れ復た何ぞ憾みんやと。忠節少うして伝              かくがい  習録を読み、而て此の心の隔礙無きを覚る。故に人  其のいづれより授受する所なるやを問ふ。曰く、即  ち之を陽明に得ると謂うて可なりと。  蔡忠襄、  わか  少うして陽明子の人と為りを慕ふ。万暦四十七年の  進士なり。杭州の推官を授けらる。山東の白蓮賊起    せつちゆう  る、浙中の奸人亦た知県を殺す、諸変起る、皆忠襄   ちう                   の籌画に頼つて、事乃ち定まる。天啓五年、行取せ              こへいけん    へい   とも  られて都に入る。同郷の顧秉謙国を柄す、与に通せ             けんたく  ず。秉謙怒る、故を以て顕擢を得ず。祀祭員外郎に                   進む。尚書・諸司を率ゐ、往いて魏忠賢の祠に謁す。  忠襄疾に託して赴かず。崇禎改元、出でて江西提学                     わか  副使と為る。陽明子の抜本塞源論を諸生に頒ち、自  ら管見を著はして、良知の説を発明す。士興起する                   げきとうと あちゆう  もの多し。浙江右参政に遷る、湖州の劇盗屠阿丑を                       かん  擒にす。当事・忠襄を以て兵を知ると為し、内艱服                 ひでり いの  除するや、井の兵備に起さる。旱に祷れば即ち雨              ふる、自余の善政軍功勝げて記すべからず。終に李  自成と大いに戦ひ、屈せずして之に死す。  孟雲      浦、尤西川に師事す、西川は即ち陽明子の学に服す                     じしやう  るものなり。雲浦は万暦八年の進士なり。時相招い                       かくぜい  て之を致さんと欲す、辞して行かず。河西務に税                  ししゆく   なんき  す。諸生と学を講ず、河西の人之を尸祝す。南畿山                 すく  東大いに飢う、命を奉じて往きて振ふ、全活するも  の多し。閣臣に附かず、中官に通せず、故を以て多                    しりぞ  く悦ばれず。張棟を救ひて上旨に忤ひ、斥けられて  民と為る。既に書院を川上に築き、学者と講習して    輟まず、四方の従遊する者恒に数百人。之を久しう               しれい  して卒す。雲浦は孟我彊と相砥礪す、時人称して二  孟と為す。  黄石斎・劉念台二賢は、共に良知の           ち し  学に私淑す。石斎は知止を以て学的と為し、念台は  慎独を以て聖功と為す。各々天下の乱に当りて、人  臣の節を守り、奸臣の間に周旋して、善類の危を扶  持す。各々斥けられて民と為ると雖も、起復されて               とら       あへ  社稷と存亡を同じうす。石斎執へらると雖も、肯て  ど じ  奴児に降らず、幽室囚服中に於て、従ふ所の門人趙  士超等四人と、講習吟咏すること常の如し。而て遂  に共に殺さる。念台商都亡ぶるに及び、人の勧めを  拒ぎ、世に生を逃るるの宰相無し、亦た豈死を逃る      るの御史大夫あらんやを以てし、食を絶つこと二十  三日、門人と問答すること平時の如し、遂に以て卒  す。而て其の門人三十又五人其の間忠臣と為り、義  士と為り、逸民と為り、皆学ぶ所に負かず、而て能               そんそもん  く門下に光るものなり。而て孫蘇門・李二曲・黄黎  洲の三子は、皆節を丘園に全うして、奴児の官職を  受けず、嗚呼、此れ皆良知の余沢にあらざらんや。       じよわうざん  ぐたい  せんしよざん  而て何ぞ啻徐横山の具体、銭緒山の篤信、王龍渓の         てうだつ  せふさうかう      せつちゆうり  せいけん  精微、王心斎の超脱、聶双江の主静、薛中離の精研                   しせん  のみならんや。其の余、劉両峰・劉獅泉・劉晴川・ くわうらくさん             きあんさい  なんずいせん  黄洛村・何善山・陳明水・魏水洲・冀闇斎・南瑞泉・   きはうざん         とうらせき  ひようくわてい  季彭山・趙大洲・董蘿石・憑華停等、皆良知の宗を              せき  得て、教化経済文章節義の績あり。而て私淑の人に  は、徐存斎・宋望之の如きは、業を聶双江に受く。  尤西川は、業を劉晴川に受く。唐荊川は業を王龍渓  に受く。羅近渓は業を王心斎再伝の顔山農に受く、             きよふゑん  とううてい  皆当代の名賢たり。而て許孚遠・ケ宇定・陳蒙山・  万思黙・胡廬山・ケ潜谷・馮慕岡・薛方山・徐波石・      しちゆうびん  張宏山・施忠愍等は、皆亦た其の私淑の傑出せる者        ●              ●   しんぎん  なり。而て夫の李見羅止修の学、呂新吾呻吟の工と              雖も、皆此に蒸出す。東林諸君の学、多く亦た源を    みちび       ど じ    しやうけつ              どんけつ  此に導く。而て奴児胡虜猖獗久し、其の種類を呑噬  すること、始めて神宗本紀万暦十一年夏五月に見ゆ。                 さくへい  而て清の三朝実録に曰く、諸部を削平して之を統一  し、軍威益々振ふ。始めて明を攻め、遼東・広寧の           みん  諸部を取ると。則ち明を滅すの謀は、一朝一夕にあ  らざること即ち見るべし。而て陽明子年二十九の時、             そ              あらかじ  嘗て辺務を陳言するの疏を上る、これ既に予め夷狄            の中国を奪ふこと金元の如きの勢を恐るるなり。君  相もし其の策を用ふれば、則ち豈それ国を奪ふこと  易易ならんや。其の之を用ひざるを以ての故に、浸                   わうかいん  こうげい  淫して遂に金元の勢を成す。而て流賊王嘉允・高迎 しやうえんすゐ  祥延綏に起る。実に崇禎元年なり。而て魏忠賢の党             かも               の  喬応甲・朱童蒙其の禍を醸せり、即ち史伝に載れり。          りうばうえきたん  又た之に加ふるに劉懋駅站を減ずるを以てし、盗賊                       飢民紛起し救治すべからざるに至る。これ西土の人               ないじゆ  皆知る所なり。況や朝廷の権内豎に帰し、奸を懐き                   ようへい  竈を固むるの徒、依附結納し、主明を擁蔽するをや。  げんすう       な  厳崇父子悪を済す、荘烈帝之を除くと雖も、而も周               た        たうち    延儒・温体仁私を懐き党を植て、忠邪倒置す。楊忠                   えんじん  愍刑に遭うてより以来、天下の名賢、皆閹人の為め   たほ        じんし  に斃る。是に於て元気尽し、国脈絶ゆるに垂んと  す。亡びざらんと欲するも得んや。然り而て土類各々              とが  上は天を怨みず、下は人を尤めず、只だ忠を尽し、    つく  節を殫し、数年間、彼れを防ぎ此れを禦ぎ、戦没す         い し とうくわん じゆすい     るものの外、縊死・投・入水し、而て降を売る者  更に多き無し。宋末と大いに反するものは何ぞや。  此れ又た豈良知の教人心を維持するにあらざらんや。  あゝ  たれ  噫、孰か其の明季の喪乱を致すと謂ふや。陸稼書等、  しん  清に仕へて顕職に登り、朱学を尊ぶ、実は之を尊ぶ                  おさ  にあらざるなり。王子の良知の教を抑ふるためのみ。  なんす                 しん  曷為れぞ王子の良知の教を抑ふるや、これ清の君臣             まさ  もく       し  別に意の在るあり、識者当に黙して之を識るべし。              おも       むけい  故に稼書等、只だ上の意に阿ねり、以て終に無稽の  言を吐くに至る。然れども其の本心にあらず、只だ  生死利害の心未だ脱せざるを以てなり。嘆ずべきの                 甚しきにあらざらんや。且つ龍渓・心斎・近渓末流                      せう  の弊は固より多しと雖も、然れども之を以て少とす                         べからず。孔門に在つて其の正宗を伝ふる者、顔曾  の二人のみ。子夏・子路等の再伝、皆弊あり。之を                   こく  以て子夏子路等を罪するは、則ち亦た刻ならずや。          故に吾れ二王と羅との三子を恕するは、此を以てな  り。然れども学者真修の工夫を要すれば、則ち龍渓   ●         ●てうだつ      の精微、心斎の超脱と、近渓の無我と無かるべから                    しう  ざるなり。龍渓四無の説は、中人以下に讎せらると       じやうこん  雖も、而も上根宿学、何ぞ嘗て同心せざらんや。心     よ  ぜん         へん  斎は世・禅を以て之を貶すと雖も、親に事へて孝、       とく       うす  師を尊びて篤、爵禄を薄んじ、性理を明らかにす。  陽明子初見の時、退いて門人に請うて曰く、吾れ宸    とりこ  濠を擒にするも少しも動くことなし、今却つて斯の  人の為めに動くと、これ真に聖人を学ぶ者なり。而     て史に心斎の書を読む、孝経・論語・大学に止まる                くわんべん          へき  と言ふと雖も、然り而て儒者の冠冕と為る、則ち僻  ろう         けいぎ              陋の学究、豈軽議すべけんや。何ぞ亦た其の王道論  を見ざるや。其の周公の法制に明らかなること即ち            がい  見るべし。然らば則ち概して禅と曰ふべけんや。近         そし          さたん  渓これ亦た禅の毀りありと雖も皆俗学左袒の論にし                   て而て公正の議にあらざるなり。袁中郎曰く、道を                  さと  学ぶの人に至つては、幾句の道理を暁り得、幾件の                いきどほ    ねた  好事を行ひ得るぞと、其の世を憤り俗を嫉むこと尤                     ばつじよ  も甚だし。此の処極めて微極めて細、最も抜除し難              だたう  し。もし能く自家の身子を打倒し、心を安んずるこ  と世俗の人と一様なるは、上根宿学にあらざれば能  はざるなり。此の意孔老より後、惟だ陽明・近渓・  こひねがは  庶幾くは之に近し。然らば則ち其の無我の気象、諸    てうたく  儒に超卓すること亦た見るべし。鳴呼、良知は聖学   しんけつ  の真訣なり。之を致すの難きに因つて、乃ち病を為                     たの  し、弊を為す。是の故に学者良知の固有を恃むべか  らず。而て実に之を致すの功を日用応酬、書を読み          させつ  武を講ずる凡百瑣屑に至るの事に用ゆれば、則ち道          およ     しか  徳功業必ず古人に逮ばん。否らざれば則ち万巻を看          破すと雖も、游談無根に帰せんのみ。亦た何の君父  に益することかこれあらん。

彭南。清朝
の学者彭定求、
字は南、嘗て
湯潜庵に師事し、
王陽明に私淑し、
陽明釈毀録を著
す。
陸侍御。清初
の大儒、陸隴其、
字は稼書、浙江
平湖の人、康煕
九年の進土侍御
史に累遷す。其
の学居敬窮理を
主とす、三魚堂
文集あり、請献
と謚せらる。
文成。王陽明
の溢。
闢。ひらき、
掃ひ除く。
恫心駭目。心
にいたみ目にお
どろく。
格物云々。大
学の格物につき、
朱子は事物に研
究し至ると説き、
王子は事物の不
正を正すと説く。
孔子、曾参、
子思、孟軻。
濂洛。周濂渓
と洛の二程子。
鄒文荘。以下
人士の名字行略
下文に出づ。


孫蘇門。名は
奇逢、明末の挙
人、晩歳蘇門の
夏峯に居る、其
学初め陸王を主
とす、後朱子に
通ず。徴さるれ
ども起たず、夏
峯先生と称す、
康煕中歿す。
李二曲。名は
、字は中孚、
其学陸王を主と
す、終身仕へず、
二曲先生と称す。
黄黎州。名は
宗羲、字は太仲、
劉宗周を師とす、
清朝徴せども出
でず、著述に力
め、宋元明儒学
案等を著す。
陳清瀾。明の
陳建、清瀾居士
と称す、学蔀通
弁を著して盛ん
に王子の学を排
撃す。
応潜斎。応ヒ
謙、明亡び、康
煕間博学鴻儒に
薦めらる、出で
ず、学者潜斎先
生と称す。
張武承。清の
康煕中の進士、
王学質疑を著は
す、名は烈。

枕秘。枕中の
秘書として愛蔵
す。
簧鼓。簧は笛、
笛や鼓を鳴らし
て攻撃を助ける。

色荘。論語に
出づ、外面を荘
厳に粧ふ人、口
講は口の上だけ。












明史藁。清初
張廷玉等勅に因
り撰す。
南疆繹史。書
名。清の温睿臨
撰す、明季の金
陵、、粤三朝
の遺事を紀す。
学按。明儒学
案、黄宗羲の著
はす所、別に宋
元学案あり。
世宗云々。明
の世宗は憲宗の
孫を以て武宗に
継ぎ、実父興献
王に帝号を奉り、
本生の称を去ら
んとす。
淫祠。つまら
ぬほこら。
位。位牌。
心喪。師に対
しては喪服を着
けず、心に喪を
つとめる。
洗馬。太子づ
きの官吏。

霍韜。明の正
徳中の進士、字
は渭先。
聖功図。天子
としての仕草の
図。

有れども云々。
論語泰伯篇に、
曾子が暗に顔子
を評する語、謙
之は東廓の字。









儲位。太子の
位。











羅倫。一峯と
号す、明の永豊
中の学者。


外舅。妻の父。


進士試験は三
年に一回之を行
ふ。

苫塊云々。苫
に寝ね土塊を枕
とす。

憂。喪なり。










流寇は流賊、
吉安は江西省に
あり。

唐順之。明の
嘉靖八年の進士、
巡撫となつて歿
す、荊川と号す。

厳崇云々。崇
は宦官を以て政
柄を弄す。時に
太子の師伝たり、
辺才の資格を仮
して採用せんと
あてる。




志士云々。孟
子の語。




楊忠愍。楊継
盛、忠愍と諡せ
らる、宦官に忤
うて忠死す。

餉を欠ぐ。糧
食欠乏し朝廷内
帑の資を乞ふ。

金花銀云々。
南地より米麦の
代輸として内府
庫に銀を納入す、
之を金花銀とい
ふ、解るは護送
のこと。






























隔礙。良知通
徹して障りなき
こと。












行取。地方官
の成績よきを中
央の官吏に抜擢
することをいふ。



魏忠賢。宦官
なり、万暦中政
権を竊弄す。






内艱。母の喪。







尤西川。名は
時煕。



税。税務を
管理す。

尸祝。尸は神
の代り、祝は神
を祭る者、之を
尊ぶなり。


張棟。字は可
菴、先に罪を獲。




孟我彊。名は
秋、字は子成。



知止。大学の
語。







奴児。清初の
帝を奴児哈赤と
いふ。





御史大夫。念
台が明朝に於て
任ぜられたる官
職。










徐横山云々。
横山は徐愛、王
子の妹壻にして
高弟、具体は孟
子浩然の気の章
の顔子等孔子の
体を具へて微な
るの言に本づく、
以下銭緒山等三
十余人は皆王子
の門人又たは後
輩にして明史、
明儒学案、王子
年譜、伝習録等
に具戴す。






李見羅。名は
材、見羅は号な
り、明の嘉靖間
の進士、南京兵
部尚書に陞る、
初め致良知の学
を学び、稍々其
の説を変ず。

呂新吾。明の
呂坤、新吾と号
す、万暦の進士、
明道を以て己が
任となす、呻吟
語を著す。

東林。明の万
暦中高忠憲、顧
陽等の率ゐる
一派の人士、百
八十余人ありと
いふ。









金元。宋の世
は、始め金に敗
れ、江南に逃れ
て南宋となり、
後元に滅ぼさる。











西土。支那。






楊忠愍。楊継
盛、前に出づ。

閹人。宦官、
前の内豎同じ。








。糸を環
にし首をくゝる。

降を売る。降
を敵に売つて利
を取る。





別に意の在る
云々。清朝東北
より起つて中土
を征服し朱子学
の無事を悦び、
又考証学を鼓吹
して俊英を錮し、
王学が致良知に
立ち、信を曲げ
ざるを危険視す
るか。
無稽。思慮な
きたはごと。
龍渓。王畿字
は汝中、王門の
高弟にして、王
子亡き後重要の
地位を占む、心
斎は王艮、字は
汝止、中年王子
に師事し処士を
以て終る、門人
多し、近渓は羅
汝芳、嘉靖三十
二年の進士、王
心斎の再伝顔山
農に学ぶこと前
出す。
顔曾。顔回と
曾参。
二王。王龍渓、
王心斎なり。羅
は羅近渓なり。
精微。王龍渓
の精透微密。
超脱。王心斎
の超脱超凡。
無我。羅近渓
は顔山農に学び
無我を主とす。
四無。王子の
四句教が、第二
句に至り、「善あ
り悪あるは意の
動」と言へるに
対し、心体に善
悪なくば、意も
知も物も善悪な
しと見る、之を
四無説といふ。
上根宿学。上
智と老学者。

王道論。心斎
の論説。






袁中郎。明末
の袁宏道、字は
中郎、詩文妙悟
を主とす。




身子。自分と
いふものを無く
す、謂はゆる無
我。














游談無根。む
だ話にて、心性
脩治の根柢なし。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その150/その152

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