山田準『洗心洞箚記』(本文)163 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.7.30

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『洗心洞箚記』 (本文)

その163

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

下 巻訳者註

   こうてん             一一 後天よりして之を観れば、則ち理と気とは常  に分つべきに似る。先天に在つては固より理気の         どく  つゝ       かへ  分つべきなし。独を慎しみ性に復るは便ち是れ先  天の学なり。而て猶理気を以て二と為す、可なら           かへ  んや。故に終身性に復る能はざるは、此れを以て  なり。   自後天而観之、則似理与気当分、在先   天固無理気之可分矣、慎独復性、便是先   天之学、而猶以理気二、可乎、故終身不   能性、以此也、


後天云々。易
の文言の、天に
先んじて天違は
ず、天に後れて
天時を奉ずより
出づ、先天は本
体の上、後天は
形器の界。

理は本体、気
は形器。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その162/その164

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