山田準『洗心洞箚記』(本文)176 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.8.19

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『洗心洞箚記』 (本文)

その176

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

下 巻訳者註

   ぜん       よろこ         ちから 二七 冉子の道を説ぶ者は、良知なり。力足らざる     きしふ   わづら  者は、気習心を累はすなり。故に其の良知を致す             かぎ  能はざるなり。然れども画つて進まざれば、則ち  心安んぜざるなり。其の安んぜざる所以のものは         くわく       ぜん   くわんせい  良知なり。夫子画の一言を以て、冉子を喚醒す、           してん  亦た只だ其の良知を指点するのみ。   冉子之説道者、良知也、力不足者、気習累   心也、故不其良知也、然画而不進、   則心不安也、其所以不安者、良知也、夫子   以画一言醒冉子、亦只指点其良知耳、


冉子云々。論
語雍也篇に、冉
求が子の道を説
べども、力足ら
ずといへるに対
し、孔子は汝は
力足らざるに非
ず画れるなりと
誡めたるを云ふ。

●気習。気質の
習性。

●指点。指示す。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その175/その177

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