三五 良知を致すの学は、但だ人を欺かざるのみな
みづか な くふう ●をく
らず、先づ自ら欺く毋きなり。而て其の功夫は屋
ろう かいしん きようく しゆゆ わす
漏より来る。戎慎と恐懼とは、須萸も之を遺るべ
たん
からざるなり。一旦豁然として天理を心に見れば、
ひようしやくとうかい まさ ●しやだつ
即ち人欲氷釈凍解せん。是に於て当に洒脱の妙此
こ
れに超ゆるもの無きを知るべし。而て世人は人を
みづか
欺き自ら欺き、是れ習俗と為る。父の子を養ひ、
子の父に事ふる、君の臣を使ひ、臣の君に事ふる
亦た是に於てす夫婦長幼朋友より、師弟の教学に
にはか
至るまで、皆然らざるは莫し。故に遽に之に良知
おどろ
を致すの事を語れば、則ち駭いて走る者あり、悪
あだ あざけ
みて仇とする者あり、嘲つて棄つる者あり、笑う
●しつこく ●るゐ
て避くる者あり、桎梏を以て之を観る者あり、縲
せつ
絏を以て之に比する者あり。故に良知の学天下に
亡びて伝はらず。只だ其れ伝はらざるなり。人亦
のぼ ●むせいすゐし
た聖賢の域に躋るを得ず。而て皆夢生酔死の場に
●ぜう/\
擾擾す、豈悲しむべきにあらざらんや。もし先覚
とく
者あらば、万死を犯して疾告げざるを得ざるなり。
あ ゝ
鳴呼、後の世に当り、先覚者は抑々誰ぞや。吾れ
あゝ
未だ其の人を見ざるなり。憶。
致良知之学、不但不欺人、先毋自欺也、
而其功夫自屋漏来、戎慎与恐懼、不可須
萸遺之也、一旦豁然見天理乎心、即人欲氷
釈凍解矣、於是当知洒脱之妙無超乎此
者、而世人欺人自欺、是為習俗、父之養
子、子之事父、君之使臣、臣之事君亦於
是、自夫婦長幼朋友至師弟之教学、莫皆
不然矣、故遽語之致良知之事、則有駭而
走者、有悪而仇者、有嘲而棄者、有笑而
避者、有以桎梏観之者、有以縲絏比
之者、故良知之学亡乎天下而不伝、只其不
伝也、人亦不得躋於聖賢之域、而皆擾擾
乎夢生酔死之場、豈非可悲乎、若有先覚
者、犯万死、不得不疾告也、鳴呼、当
後之世、先覚者抑誰歟、吾未見其人也、憶、
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●屋漏。室の西
北隅にて隠暗の
処、心の隠微に
喩へ、君子は独
を慎しむ、詩経
に「不愧于屋
漏」の句あり。
●洒脱の妙。物
事にこだはらず
さつばりしてゐ
ること。
●桎梏。手かせ、
足かせ。
●縲絏。縲は黒
い縄、絏はしば
る、獄囚のこと。
●夢生酔死。酔
生夢死に同じ。
●擾々。ごたご
た騒ぎ乱る。
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