山田準『洗心洞箚記』(本文)193 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.9.8

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『洗心洞箚記』 (本文)

その193

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

下 巻訳者註

   わうしんさい     ほうしん 四六 王心斎先生の、学者放心求むるに難きを問ふ。            た    おう              なんぢ  先生之を呼ぶ、即ち起ちて応ず。先生曰く、「而    けんざい  の心見在す、更に何ぞ心を求めんや」と、此れ謂     くわうけい  はゆる光景上の事にして、而て其の説固より非な       こ  おう       けんざい  り。もし呼に応ずる者を以て心見在すと為さば、     べうけん             則ち今猫犬を呼ぶとも、亦た応じて起ち来る、此  れを以て良心見在すと為す、可ならんや。是れ全                ぱん  く知覚の知にして、而て人獣一般なり。其の此れ  あるを以て、何ぞ心を求めんやと謂ふ、故に其の へい しやうきやうしき  弊・猖狂恣、良心を求めざるの甚しきに至る。           え     そしり  先生の罪を王門に獲、而て誹を天下に受くるは、                    只だ此の光景上の事に在り。謂はゆる賢知の高き  に過ぐるものなるか。   王心斎先生之学者問放心難於求、先生呼   之、即起而応、先生曰、「而心見在、更何求   心乎、」此所謂光景上事、而其説固非也、若   以乎呼、為心見在、則今呼猫犬、   亦応而起来、以此為良心見在、可乎、是全   知覚之知、両人獣一般也、以其有此、謂何   求心、故其弊至猖狂恣、不良心之甚   矣、先生之獲罪於王門、而受誹乎天下、只   在此光景上事、所謂賢知之過高者也歟、


王心斎。王艮、
王陽明の高弟に
して心斎と号す、
前出。

孟子に、学問
の道他なし、放
心を求むるのみ
とあり。

心見在。心が
現在覚めて存し
て居る。

光景上。実体
に触れぬ、外面
の形貌。

猖狂云々。猖
狂は、たけり狂
ひ、恣はあら
/\しく気儘。
放心を求めぬ弊
が現在の気分実
行となる。

賢知云々。中
庸に、知者之に
過ぐとあり。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その192/その194

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