山田準『洗心洞箚記』(本文)196 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.9.11

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『洗心洞箚記』 (本文)

その196

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

下 巻訳者註

   おうやうなんや      たいせき  いわう 四九 欧陽南野先生曰く。「載籍は已往の師友、師    けんざい  友は見在の載籍、其の用一なり。然れども人往往  独り載籍に学ぶを楽んで、而て共に朋友に学ぶを                      きせつ  楽しまず。其の故を察せざるべけんや。朋友規切        じんこあひけい        すれば、則ち人己相形して、情偽将に容るる所な          しようしん  ていご  からんとす。而て勝心之が牴牾を為す。載籍は則             えんふ    けん  ち其の人己に往く、或は縁附して見を立つるを得        ふつぎやく  て、而て勝心払述する所無し。故に凡そ載籍を学                    んで、而て朋友の助なければ、勝心に錮せられて、          すくな   自用に流れざるは鮮し。多識以て徳を畜ふ者は、  其れ友を取るを以て本と為すなからんや」と。此            ゆるが        れ只だ書を読んで友を忽せにするものの鍼薬なり。  学者は益友を求めざるべからざるなり。而て益友         あやま   おのれ し  は常にあらず、誤つて己に如かざる老を取らば、  則ち反つて己の徳を損す。己の徳を損すれば、則             ち載籍を友とするに若かざるなり。而て載籍は四  書六経、及び宋元明清の大儒の遺書の外は、亦た  そん    ちか      ざつらん  損友に庶し。故に之を雑覧せず便ち是れ心を失は  ざるの一端なるかな。   欧陽南野先生曰、「載籍著、已往之師友、師友   者、見在之載籍、其用一也、然人往往楽独学   於載籍、而不共学於朋友、可其   故哉、朋友規切、則人己相形、情偽将   容、而勝心為之牴牾、載籍則其人已往、或得   縁附立見、而勝心無払逆、故凡学載籍、   而無朋友之助、鮮於勝心而流於自   用、多識以畜徳者、其無友為本也   哉、」此只読書而忽友者之鍼薬也、学者不   可於益友也、而益友不常有、誤取   不己者、則反損己徳、損己徳、則不   若載籍也、而載籍四書六経、及宋元明清   大儒遺書之外、亦庶乎載友、故不覧之、   便是不心之一端也哉、


欧陽南野。欧
陽徳、南野と号
す、王陽明の高
弟。
書物は過去の
師友。
規切。正しく
切磋する。
人己云々。過
失を規切するか
ら、人の善と己
の悪と対立させ
る。
善悪が隠れる
所が無い。
勝心云々。負
けぬ気、即ち勝
ち気が、朋友の
規切と衝突する
の意。
縁附云々。因
縁づけ、こじつ
けて、見解を立
てること。
勝心に禁錮し
縛られて、自用
気儘に流る。
易大畜の卦象
辞云ふ、君子は
多く前言往行を
識つて其の徳を
畜ふ。

鍼薬。鍼は鍼
治のはり。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その195/その197

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