山田準『洗心洞箚記』(本文)198 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.9.13

玄関へ

大塩の乱関係史料集目次


『洗心洞箚記』 (本文)

その198

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

下 巻訳者註

   じゆんし   あく        あ            ふ 五一 荀子の性悪説は、之を情に当つれば、則ち不  えき                 ふんがふ  易の論なり。而て之を性に当つれば、則ち合せ             かれ  ざるなり。此れ他なし、他は只だ陰陽を看て、而       て未だ太極を見ざる故なり。   筍子性悪之説、当之于情、則不易之論、而当   之于性、則不也、此無他、他只看陰   陽、而未大極故也、    いんやう      な 五二 陰陽上より做す者は、天下皆是れなり。而て        太極上より做す者は、惟だ是れ聖賢のみ。而て常            くわんぱ  人と雖も、方寸の虚を看破すれば、則ち彼れを出  で、此れに入ること、葢し亦た難からざらんか。   従陰陽上做者、天下皆是也、而従太極上做   者、惟是聖賢而已、而雖常人破方寸之虚、   則出彼入此、葢亦不雑歟、


荀子。名は況、
周末の学者、其
の書荀子に、性
悪篇あり、孟子
に反対す。

合。ぴつた
り合ふこと、
は吻に同じ、ク
チビル。

太極は本体、
即ち性に当る。






陰陽云々。太
極の分れた陰陽、
即ち情の上より
事を行ふの意。

太極云々。本
体即ち性、即ち
天理良知の上よ
り行ふは聖賢の
意。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その197/その199

大塩の乱関係史料集目次

玄関へ