山田準『洗心洞箚記』(本文)199 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.9.14

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『洗心洞箚記』 (本文)

その199

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

下 巻訳者註

   げうかう    じしよう          そんけい 五三 暁行して寺鐘を聞き、又た村を聞く。乃ち                か      な  従ふ所の弟子に告げて曰く、夫の鐘の鳴るは、其                 ゑんきよう  の中を虚にするを以てなり、其の遠響は乃ち家家   すゐ    よ   さ         こうえん  の睡人を喚び醒ます。而ては其の口咽より心に                     じ や  通ず、即ち亦た虚なり、故に声ありて以て時夜を       ふたつ  告ぐ。もし両ながら虚あるにあらずんば、則ち響  と声と無けん。故に人も亦た方寸の虚を塞がずば、                 なんぢ    即ち事物に感通せざるなきなり。が輩、学ぶと  は此れを学ぶなり、問ふとは此れを問ふなり、思  ふとは此れを思ふなり、弁ずるとは此れを弁ずる  なり、行ふとは此れを行ふなり。而て人欲去り、                めう  全く太虚に帰すれば、則ち其の言述すべからざ           しよう けい  るなり。奚んぞ啻だ鐘と鶏との類ならんや。   暁行聞寺鐘、又聞、乃告従之弟子   曰、夫鐘之鳴、以其虚乎中、其遠響乃喚醒   家家睡人、而其口咽于心、即亦虚   也、故有声以告時夜、如両非虚、則無   響与声矣、故人亦不於方寸之虚、即無   不通於事物也、輩、学者、学此也、問   者、問此也、思者、思此也、弁者、弁此也、   行者、行此也、而人欲去、全帰乎太虚、則   其言述也、奚啻鐘与鶏之類也哉、











時夜。が時
をつげること、
其の語、荘子斉
物論に見ゆ。


●学ぶ云々。中
庸に「博学之、
審問之、慎思
之、明弁之、篤
行之」とあり.
此に本づいてい
ふ。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その198/その200

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