山田準『洗心洞箚記』(本文)207 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.9.23

玄関へ

大塩の乱関係史料集目次


『洗心洞箚記』 (本文)

その207

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

下 巻訳者註

   めいとく     ほんりやう 六二 明徳は知の本量なり。明徳を明かにせずして  仁を行ひ義を行ふ、則ち仁にしで仁ならず、義に           くら        あやう  して義ならず、而て罔くして且つ殆し。譬へば陳      あんしつ      さ     しき/\  列の器を闇室の中に捜ぐる如し。色々在るありと     とうしよく  雖も、灯燭なきを以ての故に、之を執り得る能は    たと  ず。設ひ之を執り得るも、其の期する所なるや否    だんち                しよく  やを断知する能はず。疑はん、惑はん。もし燭を  照らして之を択ばば、則ち亦た何の難きことこれ      こゝ  あらん。是を以て人は明徳を明らかにせざるべか                らず。徳明かなれば衆善皆挙がる。而て其の功は      則ち致知・格物・誠意・正心・修身に在るなり。  あゝ  噫、気習深き者、百倍の功を用ひずして其の明を  のぞ         じき じ ばう  き  望まば、則ち遂に亦た自棄自暴に帰せん。   明徳者、知之本量也、不明徳而行仁行   義、則仁而不仁、義而不義、而罔且殆矣、譬   如陳列之器於闇室中、雖色色在焉、   以灯燭故、不得之、設執得之、   不断知其所期乎否乎、疑焉惑焉、如照   燭而択之、則亦何難之有、是以人不   明徳、徳明則衆善皆挙矣、而其功則在致知格   物誠意正心修身也、噫、気習深者、不百倍   之功而望其明、則遂亦帰乎自棄自暴矣、


明徳。大学の
首章に「大学の
道は明徳を明か
にするに在り」
とあり、その明
徳は、良知の本
来の総量なり。

論語為政篇に
「学んで思はざ
れば罔し、思う
て学ばざれば殆
し」とあり。

色色。一々又
は歴々といふ意。






致知以下四項
は大学八條目の
各項なり。

自棄は、ダメ
として打ちやる。
自暴は、ヤケと
なつて乱暴する。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その206/その208

大塩の乱関係史料集目次

玄関へ