山田準『洗心洞箚記』(本文)222 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.10.20

玄関へ

大塩の乱関係史料集目次


『洗心洞箚記』 (本文)

その222

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

下 巻訳者註

     をし            き  のつと 七七 人を教ふる者、聖賢教ふる所の規に法らずし      まんじ         ほどこ  て、而て漫爾として之を施さば、則ち賢と不肖と、        こんざつ       じ とく  才と不才と、混雑して各々自得する能はざるなり。  各々自得する能はざれば、則ち身心に益なし。身                 まさ  心に益なければ、則ち教へざるの愈れりと為すに            如かざるなり。故に孟子曰く、「君子の教ふる所         じ う  以のもの五、時雨の之を化する如きものあり、徳  を成す者あり、材を達する者あり、問に答ふる者     ひそか しゆくがい  あり、私に淑艾せしむる者あり、此の五者は君子  の教ふる所以なり」と。教ふる者此れを以て法と        ち か  為さば則ち庶幾し。而も斯の徳あつて教を為す者      すくな  は天下に鮮し。故に子弟の徳を成し材を達する者、             あゝ  未だ之を聞かざるなり。吁、悲しいかな。   教人者、不於聖賢所教之規、而漫爾施   之、則賢与不肖、 才与不才、混雑而不   能各自得也、不各自得、則無於身   心矣、無於身心則不教之為愈   也、故孟子曰、「君子之所以教者五、有   時雨化之者、有徳者、有材者、   有問者、有私淑艾者、此五者、君子之   所以教也、」教者以此為法則庶幾焉、而   有斯徳教者天下鮮矣、故子弟之成徳達   材者、未之聞也、吁、悲夫、




漫爾。漫然不
注意。






孟子尽心篇に
出づ。





私に云々。間
接(私)に前代の
人を師として、
其の教説に依つ
て己を善(淑)く
し、治(艾)める、
私淑に同じ。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その221/その223

大塩の乱関係史料集目次

玄関へ