山田準『洗心洞箚記』(本文)223 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.10.21

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『洗心洞箚記』 (本文)

その223

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

下 巻訳者註

                 七八 或「之を知る者は之を好む者に如かざる章」             せきし  の義を問ふ。曰く、人・赤子の心を失はざれば、      じゆんすゐ              ちれう  則ち良知純粋清明なり。故に孝弟仁義の道を知了  して以て之を好み、之を好みて以て之を行ひ、之                いつせいれう  を行うて以て之を楽しむ。総て一斉了す、嘗て等  級あるにあらざるなり。之を飲食に譬ふるに、之                たしな  を知れば即ち食ひ、食へば即ち嗜み、嗜めば即ち    飽く、亦た何の等級かこれあらん。然り而て学者  たいてい  大抵赤子の心を失ふ、故に之を知る者の如しと雖  も、真に其の知を致す能はず、故に之を好まず。  何ぞ況や之を楽しむに至らんや。終に飲食と同じ             からざるなり。故に夫子は知と好と楽とを分別し                     かへ  て言へり。是れ葢し人の知行合一の本体に復らざ    がいたん  るを慨嘆するなり。   或問之者不之者章之義、曰、人   不赤子之心、則良知純粋清明、故知了孝   弟仁義之道以好之、好之以行之、行之以   楽之、総一斉了、非嘗有等級也、譬之飲   食、知之即食、食即嗜、嗜即飽、亦何等級之   有、然而学者大抵失赤子之心、故雖   之者、不真致其知、故不之、何況   至於楽之乎、終与飲食同也、故夫子分   別知与好与楽言、是葢慨嘆人不知行合   一之本体也、



論語雍也篇に
見ゆ。

大人は赤子の
心を失はざるも
のなりと、孟子
離屡篇に見ゆ。

一斉了。一切
が出来る。












夫子。孔子。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その222/その224

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