山田準『洗心洞箚記』(本文)227 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.10.25

玄関へ

大塩の乱関係史料集目次


『洗心洞箚記』 (本文)

その227

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

下 巻訳者註

   とう       たいげん 八二 董子曰く、「道の大原は天に出づ」と、此の       しんじゆ  一語は盖し真儒の言なり。故に朱子之を取つて以        ちうない  て中庸首章の註内に入る。而て其の道なるものは  せいめい  性命なり。性命は即ち方寸の心に存す。而て其の  げん  原は則ち天の太虚に在り。故に学んで天の太虚に           きよくこう      しまう  帰す、此れ是れ聖学の極功なり。董子の学思孟に    継げるは、此を以てなり。鳴呼、大なるかな。   董子曰、「道之大原出於天」此一語、盖真儒   之言也、故朱子取之、以入於中庸首章之註内、   而其道也者、性命也、性命即存乎方寸之心、   而其原則在於天之太虚、故学而帰乎天之太   虚、此是聖学之極功也、董子之学継思孟、   以此也、鳴呼、大哉、


董子。前漢の
董仲舒を云ふ。

中庸章句本の
首節の註の終り
に、「董子所謂」
として此句を引
く。


極功。最後至
極の功。(しご
と)

思孟。子思と
孟子。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その226/その228

大塩の乱関係史料集目次

玄関へ