山田準『洗心洞箚記』(本文)228 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.10.26

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『洗心洞箚記』 (本文)

その228

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

下 巻訳者註

   とう       八三 董子曰く、「其の誼を正して、其の利を計ら  ず。其道を明らかにして、其の功を計らず」と。      ないくわん     さうしよう  宋の大儒范内翰祖禹毎に之を荘誦し、人に謂ひて  曰く、「君子己を行ひ朝に立つ、当に此の如くな        るべし。夫の成功の若きは則ち天なり」と。而て                      びやく  朱子亦た之を採つて以て其の小学に書し、以て白  ろくどうがくそく かゝ      くわいしや       こゝ  鹿洞学則に掲ぐ、故に人口に膾炙すること茲に幾           せいぎめいだう  くん  百年なり。而て其の正誼明道の訓、何ぞ之を口に  する者多く、而て躬に之を行ふ者少きや。其の然  る所以を究むるに他にあらず、只だ功を計り利を     よく  計るの慾あるを以てなり。而て中人以下は、斯の                   しん  慾無きに至る能はざるなり。然れども真に学に志  ざす者は、則ち先づ斯の慾を去らざるべからざる  なり。斯の慾を去るの功夫は、亦た只だ其の義に                       くわ  当るや、其の身の禍福生死を顧みずして、而て果  かん  敢に之を行ふ。其の道に当るや、其の事の成敗利                   鈍を問はずして、而て公正に之を履む。則ち其の                かじやうさはん  慾日に薄くして、而て道義終に家常茶飯とならん。                 しよかつぶこう  此れ虚言にあらず。漢に在つては諸葛武侯、唐に       がん      ぶん  しや  みん  在つては二顔、宋に在つては文・謝、明に在つて   りう くわう          さ はん  は劉・黄、是れ皆道義を以て、茶飯と為せるもの           こゝ       かうと し やう  なり。学者もし亦た此に至らば、則ち江都紫陽の       のこ      い  むく      ち か  二子後人に胎す所の意に酬ゆるに庶幾からん。   董子曰、「正其誼、不其利、明其道、   不其功、宋大儒范内翰祖禹毎荘誦之、   謂人曰、「君子行己立朝当此、若夫成   功則天也、」而朱子亦採之以書於其小学、   以掲於白鹿洞学則、故膾炙人口百年於   茲、而其正誼明道之訓、何口之者多、而躬   行之者少也、究其所以然非他、以只有   功計利之慾也、而中人以下不斯慾   也、然真志於学者、則不先去斯慾   也、夫斯慾之功夫、亦只当其義也、不   其身之禍福生死、而果敢行之、当其道也、   不其事之成敗利鈍、而公正履之、則其慾   日薄、而道義終為家常茶飯矣、此非虚言、   在漢諸葛武侯、在唐二顔、在宋文謝、在明   劉黄、是皆以道義茶飯者也、学者如亦至   此、則庶幾酬江都紫野二子所於後人之   意焉、

此語董仲舒賢
良策の語、近思
録為学類及び小
学に引かる、誼
は義、功は效果
利益なり。
范内翰。宋の
名士范祖禹のこ
と、権要に忤ひ
貶せらる。内翰
は翰林学士。
荘誦。謹み読
む。

白鹿洞。朱子
の講授せし書院
の名、学則を撰
して掲ぐ、其の
址江西省廬山の
麓に在り。

膾炙。なます
と、炙り物より
転じて、物事が
広く人に伝へら 
れることに用ふ。







家常茶飯。毎
日の食事をする
やうな、きまつ
た事。

諸葛武侯。諸
葛亮、前出二顔。唐の忠
臣顔杲卿、常山
の太守、安禄山
の乱に義兵を起
して殺さる、顔
真卿、平原の太
守、杲卿と共に
義を唱ふ。
文謝、文天祥、
宋末、義兵を起
して捕へられ、
屈せずして殺さ
る。謝枋得は畳
山と号す、元の
都に拘せられ、
絶食して死す。
劉黄。劉宗周、
念台又た山と
号す、慎独を主
とす、清兵に敗
れ、絶食して死
す。黄道周は石
斎と号す、剛直、
清師に抗し、兵
敗れて死す、忠
烈と志す。

江都紫陽。菫
仲舒は江都王に
相たり、朱子は
紫陽書院に教授
す。


 管理人註
  その106に「念台」の註あり。


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