山田準『洗心洞箚記』(本文)242 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.11.14

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『洗心洞箚記』 (本文)

その242

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

下 巻訳者註

           九四 二程子曰く、「天下の善悪は皆天理なり、之                       を悪と謂ふ者は、本と悪なるにあらず、但だ或は          すなは  過ぎ、或は及ばず、便ち此の如し」と。又た曰く、  「聖人は即ち天地なり。天地の中何物かあらざら       かつ    けんべつ  ん、天地豈嘗て善悪を揀別する心あらん。一切涵            容覆載す、但だ之に処るに道あるのみ」と。陽明  子の善悪は只だ一物との説は、二程子の此の語に  根ざし来るなり。而て善悪皆天理の説を以て儒者  に語るに、儒者は乃ち謂ふ性は即ち善のみ、悪を  以て天理と謂ふ可ならんやと、而て必ず善悪皆天  理の説を信ぜず。然れども天の太虚を悟れば、則   うたが  ち疑ふべきなし。如し太虚を悟らざれば、則ち賢       おどろ             とが  者と雖も猶駭いて信ぜず。故に何ぞ世儒を咎むる  に足らんや。其れ但だ之に処るに道あるのみの六       あじは                字は、更に味ひあり。陽明子の良知を致すは、止    こ こ    しよは  だ此処に在つて破し了るのみ。   二程子曰、「天下善悪皆天理、謂之悪者、   非本悪、但或過或不及、便如此」、又曰、   「聖人即天地、天地中何物不有、天地豈嘗有   心別善悪、一切涵容覆載、但処之有道   爾」、陽明子善悪只一物之説、根二程子此語   来也、而以善悪皆天理之説於儒者、儒   者乃謂性即善也耳、以悪謂天理可乎、而必   不善悪皆天理之説、然悟天之太虚、則   無疑矣、如不太虚、則雖賢者猶駭   而不信、故何足世儒哉、其但処之有   道爾之六字、更有味、陽明子致良度知、止   在此処破了、


此の語は程明
道の説なり。

過か不及かの
上に善悪の名生
ず。


善意の名を附
して取捨はせぬ。

之に処る云々。
毒蛇猛獣は其の
様に取り扱ふ。
















破。狙視
(ねらひ)看破
す。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その241/その243

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