山田準『洗心洞箚記』(本文)244 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.11.19

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『洗心洞箚記』 (本文)

その244

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

下 巻訳者註

    九六 或、大程子の、理を窮むるは智の事なり、性  を尽すは仁の事なり、命に至るは聖人の事なりと                     いへるを問ふ。曰く、然らざるなり。誠に理を窮           こゝ            むれば、則ち性命皆是に在り。蓋し立言の勢、爾  か云はざるを得ざるなり。程子又た曰く、「理を                    へいれう  窮め性を尽し以て命に至る、三事一時に並了す、                   元と次序なし。窮理を将つて知の事と作すべから                      れう  ず、若し実に理を窮め得れば、則ち性命亦た了す  べし」と。又た曰く、「理を窮め性を尽し以て命  に至るは一物なり」と。又た曰く、「知を致すは  但だ至善に止るを知るなり。人の子となつては孝  に止り、人の父となつては慈に止るの類、須らく               はん           いうき  外面只だ務めて物理を観て、泛然として正に游騎  の帰る所なきが如くなるべからざるなり」と。又  た曰く、「知至れば則ち意誠なり、若し知つて誠  ならざるものあらば、皆知の未だ至らざるなり」                   そくいん  と。或又た問ふ、心を尽すの道は、皆惻隠の心あ  つて而て惻隠を尽し、羞悪の心あつて而て羞悪を  尽すを謂はんやと。程子曰く、「尽せば則ち尽さ  ざるなし。苛も一一にして之を尽さんとせば、い                    かんいちよくせつ  づれか能く尽さんや」と。程門の工夫、簡易直截             し り  此の如し。而て未だ甞て支離の弊あらざるなり。  学者心を平らかにし気を易くして之を見れば、則  ち陽明子の諸説と父子の如し、何の血脈の異なる  ものあらんや。   或問大程子、窮理智之事也、尽性仁之事也、   至於命聖人之事也、曰、不然也、誠窮理、   則性命皆在是、蓋立言之勢、不爾   也、程子又曰、「窮理尽性以至於命三事一   時並了、元無次序、不窮理知之   事、若実窮得理、則性命亦可了」、又曰、   「窮理尽性以至於命一物也」、又曰、「致   知但知於至善、為人子於孝、為人   父於慈之類、不外面只務観物理、   法然正如游騎無帰也」、又曰、「知至則   意誠、若有知而不誠者、皆知未至也」、或   又問、尽心之道、豈謂惻隠之心而尽乎   惻隠、有羞悪之心而尽乎羞悪也哉、程子   曰、「尽則無尽、苛一一而尽之、烏乎而   能尽、」程門之工夫、簡易直截如此、而未嘗   有支離之弊也、学者平心易気見之、則与   陽明子諸説父子、有何血脈之異



誠に理を窮む
れば既に実行と
なる。性を尽す
も、命に至るも
皆其の中に包含
せらる。

立言の勢。分
析的に言を立て
し勢。














泛然云々。別
に目的を定めぬ
游騎が、歩き廻
つて落ちつく処
もないこと、博
覧多渉要領なき
に喩ふ。













支離。物理と
心が離ればなれ
になること。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その243/その245

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