人
九六 或、大程子の、理を窮むるは智の事なり、性
を尽すは仁の事なり、命に至るは聖人の事なりと
●
いへるを問ふ。曰く、然らざるなり。誠に理を窮
こゝ ● し
むれば、則ち性命皆是に在り。蓋し立言の勢、爾
か云はざるを得ざるなり。程子又た曰く、「理を
へいれう
窮め性を尽し以て命に至る、三事一時に並了す、
も ま な
元と次序なし。窮理を将つて知の事と作すべから
れう
ず、若し実に理を窮め得れば、則ち性命亦た了す
べし」と。又た曰く、「理を窮め性を尽し以て命
に至るは一物なり」と。又た曰く、「知を致すは
但だ至善に止るを知るなり。人の子となつては孝
に止り、人の父となつては慈に止るの類、須らく
●はん いうき
外面只だ務めて物理を観て、泛然として正に游騎
の帰る所なきが如くなるべからざるなり」と。又
た曰く、「知至れば則ち意誠なり、若し知つて誠
ならざるものあらば、皆知の未だ至らざるなり」
人 そくいん
と。或又た問ふ、心を尽すの道は、皆惻隠の心あ
つて而て惻隠を尽し、羞悪の心あつて而て羞悪を
尽すを謂はんやと。程子曰く、「尽せば則ち尽さ
ざるなし。苛も一一にして之を尽さんとせば、い
かんいちよくせつ
づれか能く尽さんや」と。程門の工夫、簡易直截
●し り
此の如し。而て未だ甞て支離の弊あらざるなり。
学者心を平らかにし気を易くして之を見れば、則
ち陽明子の諸説と父子の如し、何の血脈の異なる
ものあらんや。
或問 大程子、窮 理智之事也、尽 性仁之事也、
至 於命 聖人之事也 、曰、不 然也、誠窮 理、
則性命皆在 是、蓋立言之勢、不 得 不 云 爾
也、程子又曰、「窮 理尽 性以至 於命 三事一
時並了、元無 次序 、不 可 将 窮理 作 知之
事 、若実窮 得理 、則性命亦可 了」、又曰、
「窮 理尽 性以至 於命 一物也」、又曰、「致
知但知 止 於至善 、為 人子 止 於孝 、為 人
父 止 於慈 之類、不 須 外面只務観 物理 、
法然正如 游騎無 所 帰也」、又曰、「知至則
意誠、若有 知而不 誠者 、皆知未 至也」、或
又問、尽 心之道、豈謂 有 惻隠之心 而尽 乎
惻隠 、有 羞悪之心 而尽 乎羞悪 也哉、程子
曰、「尽則無 不 尽、苛一一而尽 之、烏乎而
能尽、」程門之工夫、簡易直截如 此、而未 嘗
有 支離之弊 也、学者平 心易 気見 之、則与
陽明子諸説 如 父子 、有 何血脈之異 、
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●誠に理を窮む
れば既に実行と
なる。性を尽す
も、命に至るも
皆其の中に包含
せらる。
●立言の勢。分
析的に言を立て
し勢。
●泛然云々。別
に目的を定めぬ
游騎が、歩き廻
つて落ちつく処
もないこと、博
覧多渉要領なき
に喩ふ。
●支離。物理と
心が離ればなれ
になること。
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