山田準『洗心洞箚記』(本文)246 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.11.21

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『洗心洞箚記』 (本文)

その246

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

下 巻訳者註

          せい 九八 大程子曰く、「性を知れば即ち生死の説に明                 かんつう  らかなり」と。又た曰く、「心に感通あるを説か      なん  ば、更に甚の生死古今の別を説かんや」と。又た                      えい  曰く、「死生存亡従つて来る所を知れば、胸中瑩  ぜん               た  こ   然として疑ひ無し、止だ此れ理のみ。死の事は即  ち生是れなり、更に別理無し」と。又た曰く、    ごもく  「語黙は猶昼夜のごとく、昼夜は猶生死のごとく、    生死は猶古今のごとし」と。此れ皆程子が心を尽               りかい  し、性を尽し、而て生死を理会する所以の処なり。                いき  吾れ嘗て謂ふ、未だ出ださず、息内に在るは、即           ち生なり。既に吹いて息外に出づるは、即ち死な  りと。身に就いて之を視れば、則ち生死何の知り               さとり も       けうくわい  難きことかこれあらん。此の悟本と程子の教誨を しやうりやう  承領し来りて以て得たるものなり。   大程子曰、「知性即明生死之説、」又曰、   「説心有感通、更説甚生死古今之別、」   又曰、「死生存亡知従来、胸中瑩然無疑、   止此理耳、死之事、即生是也、更無別理、又   曰、「語黙猶昼夜、昼夜猶生死、生死猶   古今」此皆程子尽心尽性、而所以理会生   死処也、吾嘗謂、未出息在内、即生也、既   吹息出乎外、即死也、就身視之、則生死何   難知之有、此悟本承領程子之教誨来以得焉者   也、



心は感通の主
体にして、生死
古今は感通の表
現(あらはれ)な
り。
甚。俗語、何
(なに)の意。

瑩然。かゞや
き、さらりとし
て。

理のみ。生も
死も、ともに理
なり。

生死は古今。
一物の変化にし
て、二つにあら
ず。

未だ云々。息
が内にあるは息
の生、息を吹き
出せば息の死、
一身の内に既に
死生あり。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その245/その247

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