山田準『洗心洞箚記』(本文)255 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.12.6

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『洗心洞箚記』 (本文)

その255

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

下 巻訳者註

           一〇五 張子曰く、「太虚にして形なきは、気の本        しう   さん     かくけい      しせい  体なり。其の聚其の散は、変化の客形のみ。至静     かん           えんげん     しき      ち  にして感なきは、性の淵源なり。識あり、知ある    ぶつかう  は、物交の客感のみ。客感と客形と、感なく、形  なきとは、惟だ性を尽すもの之を一にす」と。謹                    んで按ずるに、張子が正豪に太虚を道ふは此れよ  り始まる。太虚にして形なきより変化の客形のみ  に至るまでは、太虚の体用を論ずるなり。至静に  して感無きはより物交の客感のみに至るまでは、  性情の体用を論ずるなり。客感と客形とより終り  に至るまでは、聖人理気を合せて一にするを論ず  るなり。然らば則ち聖人の心は即ち太虚なり。是            の故に吾が輩真に聖功に志ざすは、則ち及ばずと  雖も、其の願なきにあらざるなり。   張子曰、「太虚無形、気之本体、其聚其散、   変化之客形爾、至静無感、性之淵源、有識   有知、物交之客感爾、客感客形、与感無   形、惟尽性者一之、」謹按、張子正豪道   太虚此始、太虚無形至変化之客形爾、   論太虚体用也、至静無感、至物交之客感   爾、論性情体用也、客感客形至終、論聖   人合理気而一焉也、然則聖人之心即太虚也、   是故吾輩真志聖功、則雖及、非其   願也、


以下は張子正
蒙の文なり、正
蒙は張子の学説
思想の録された
るものにして、
太虚の説は此に
出づ。

変化の客形。
気の聚散は変化
の仮りの形象。

物交の客感。
外物に交つた上
の仮りの感覚。











聖功。聖人の
心即ち太虚と一
なる功(しごと)。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その254/その256

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