山田準『洗心洞箚記』(本文)256 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.12.7

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『洗心洞箚記』 (本文)

その256

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

下 巻訳者註

一〇六 張子曰く、「太虚は気なきこと能はず。気  は聚つて万物とならざること能はず。万物は散じ                  したが  て太虚とならざること能はず。是れに循つて出入           するは、是れ皆已むを得ずして然るなり。然らば                    わづら  則ち聖人は道を其の間に尽し、兼ね体して累はさ  れざる者にして、神を存すること其れ至れり。彼   じやくめつ     ゆい       したが  の寂滅を語る者は、往て反らず。生に徇つて有に          執する者ほ、物にして化せず。二者間ありと雖も、               ひと  以て道を失へるを言へば則ち均し。聚るも亦た吾  が体、散ずるも亦た吾が体なり。死の亡びざるを  知る者は、与に性を言ふべし」と。謹んで按ずる  に、太虚や、気や、万物や、道や、神や、皆一物  にして、而て聚散の殊なるのみ。要するに太虚の  変化に帰するなり。故に人・神を存し、以て性を  尽せば、則ち散じて而て死すと雖も、其の方寸の  虚は、太虚と混一して而て同流し、朽ちず亡びず。            こゝ  人もし虚を失はずして此に至らば、亦た大なり。               盛なり。而も老仏は倶に道に暗し。故に仏は散を  知つて聚を知らず、是れ陰を知つて陽を知らざる  ものなり。老は聚を知つて散を知らず、是れ陽を                   ぺん  知つて陰を知らざるものなり。各々一偏に陥る、  豈聖人の陰を知り陽を知り、死を知り生を知ると  日を同じうして語るべけんや。   張子曰、「太虚不気、気不聚而   為万物万物不散而為太虚、循是出   入、是皆不已而然也、然則聖人尽道其間、   兼体而不累者、存神其至矣、彼語寂滅者、   往而不反、徇生執有者、物而不化、二者雖   有間矣、以言道則均焉、聚亦吾体、散亦   吾体、知死之不亡者、可与言性矣、」謹按   太虚也、気也、万物也、道也、神也、皆一物、   而聚散之殊耳、要帰乎太虚之変化也、故人存   神以尽性、則雖散而死其方寸之虚、与太虚   混一而同流、不朽不亡矣、人如不虚而至   此、亦大矣盛矣、而老仏倶暗道、故仏知散而   不聚、是知陰而不陽者也、老知聚而   不散、是知陽而不陰者也、各陥于一   偏矣、豈可聖人知陰而知陽、知死而知   生同日而語哉、







聚散に循ふ。


兼体。太虚と
万物とを兼ね体
す。


寂滅。仏家の
意見。

物にして化せ
ず。物に捉はれ
融化せず、俗学
を指す。
















太虚変化の道。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その255/その257

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