山田準『洗心洞箚記』(本文)265 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.12.17

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『洗心洞箚記』 (本文)

その265

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

下 巻訳者註

    いうていふ 一一五 遊定夫先生曰く、「仁は人心なり、則ち仁         の仁たる、其の本心を得るのみ。且つ心の本体は        じ ゞ         ぶつ/\  一つのみ。事事にして之を為し、物物にして之を              つ      かさ  愛するにあらず、又日を積み月を累ねて後に至る                かへ     かへ  べきにあらざるなり。一日本に反り常に復らば、           則ち万物一体、適くとして仁にあらざるはなし。        おのれ  か      かへ     故に曰く、一日己に克ち礼に復れば、天下仁に帰  せんと。天下仁に帰するは、足ることを己に取り、        而て外に藉るあるにあらず。故に曰く、仁を為す  は己に由る、而も人に由らんや」と。一日己に克                        てば天下仁に帰せんの解、先生及び亀山先生姚江   いた                  いらく  に迄るまで、只だ一轍なり、当に姚江の源、伊洛       しゆし  に由り以て洙泗に発することを知るべし。   遊定夫先生曰、「仁人心也、則仁之為仁、得   其本心而已、且心之本体一而已矣、非事事而   為之、物物而愛之、又非日累月而後可   至也、一日反本復常則万物一体、無適而非   仁矣、故曰、一曰克己復礼、天下帰仁焉、   天下帰仁取足於己、而非於外、故   曰、為仁由己、而由人乎哉、」一曰克己   天下帰仁焉之解、先生及亀山先生迄姚江只   一轍、当姚江之源、由伊洛以発洙泗矣、


遊定夫。游酢
字は定夫、程子
兄弟を師とす、
大学博士に至る。

其の本心に外
ならず。




己に克ち云々。
論語顔淵篇に出
づ。

吾が万物一体
の仁心により、
天下が吾が仁中
に帰すの解。



姚江。王隕明。

伊洛云々。伊
水洛水は程子の
居処より転じて
程子の学を称す、
洙水泗水は孔子
其間に学を講ぜ
しより転じて孔
子の儒道を称す、
程子学より溯つ
て、孔子の儒道
に発源すとなり。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その264/その266

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