一一八 楊亀山先生曰く、「学者書を読むの法は、
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身を以て之を体し、心を以て之を験し、燕間静一
しようようもくくわい ●
の中に従容黙会し、書言象意の外に超然自得す」
いぜん さいせき そな
と。又た曰く、「堯舜より已前、載籍未だ具はら
●ふくぎくわく はつ
ず、世にある所のものは、独り 犧画する所の八
け
卦のみ。是の時に当り、聖賢彼の如く其れ多し、
●さんていけいさく しん へ へ
孔子刪定繋作の後より、秦を更漢を歴、以て今に
いた あ
迄る、其の書勝げて記すべからざるに至る。人の
と やす
資りて以て学と為す所のものは、宜しく古に易か
るべし。然かも其の間千数百年、一人の古の聖賢
つひ
の如きものを求むるに、卒に得易らざるは何ぞや。
豈道の伝はる所は、固より文字の多寡に在らざる
●かうえう ●こゝ かんが
か。夫れ堯舜禹皐陶皆「若に古を稽ふ」と称せり、
学に待つ無きにあらざるなり。 其の学は果して
何を以てせるや。是れに由つて之を観れ ば、則
ち聖賢の聖賢たる所以は、其の心を用ふる、必ず
在るところあらん、学者之を察せざるべからず」
と。右二條は、程門相伝の読書の訣なり。前の一
りくしやうざん ● ちう
條は乃ち陸象山先生の謂はゆる「六経は皆我が註
きやく
脚」の意にして、而て亀山先生の言は則ち湿潤な
り。後の一條は、亦た象山先生の弁ずる所にして、
●
堯舜の前、何の書をか読むべきの旨にして、而て
亀山先生の語は則ち優婉なり。之を要するに書を
●い ふ
読まば則ち心得躬行を貴ぶ。楽めば則ち伊傳、憂
がんびん
ふれば則ち顔閔、其の志なければ、則ち亀山、象
山二先生の言、皆耳に入らず、反て以て之を仇と
す。世道の衰ふる、豈悲しむべきにあらずや。
楊亀山先生曰、「学者読 書之法、以 身体 之、
以 心験 之、従 容黙会於燕間静一之中 、超
然自得於書言象意之外 、」又曰、「自 堯舜
已前、載籍未 具、世所 有者、独 犧所 画八
卦耳、当 是之時 、聖賢如 彼其多也、自 孔
子刪定繋作之後 、更 秦歴 漢、以迄 于今 、
其書至 不 可 勝記 、人之所 資以為 学者、
宜 易 於古 、然其間千数百年、求 一人如
古之聖賢 、卒不 易 得、何哉、豈道所 伝固
不 在 於文字之多寡 乎、夫堯舜禹皐陶、皆
称 若稽 古、非 無 待 於学 也、其学果何以
乎、由 是観 之、則聖賢之所 以為 聖賢 、
其用 心必有 在矣、学者不 可 不 察 之也、」
右二條、程門相伝読書之訣也、前一條、乃陸
象山先生所 謂、「六経皆我註脚」之意、而
亀山先生之言則温潤矣、後一條、亦象山先生
所 弁、堯舜之前、何書可 読之旨、而亀山先
生之語則優婉矣、要 之読 書則貴 心得躬行 、
楽則伊伝、憂則顔閔、無 其志 、則亀山象山
二先生之言、皆不 入 耳、反以仇 之、世道
之衰豈非 可 悲乎、
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●燕間静一。燕
は安、間はゆる
やか、静はしづ
か、一は心が散
らぬこと。
●書言象意。文
字、言語、形象、
意念。
● 犧。伏羲に
同じ、始めて易
の八卦を画す。
●刪定繋作。詩
書を刪り定め、
易に伝を繋け、
又た春秋を作る。
●皐陶。人名、
舜の時、法に明
らかなりし人。
●書経の二典三
謨には皆曰若稽
古の字を冠せり。
●六経云々。南
宋陸象山の語な
り、我心は即ち
理にして根本な
り、六経は我が
心を説明したる
に過ぎずとなす。
●堯舜云々。大
昔には読むべき
書物も無かりし
にも拘らず人物
が生れた、象山
の語なり。
●伊傳云々。伊
尹は殷湯王の宰
相、傳説(ふえ
つ)は殷の高宗
の名和、顔回と
閔子とは孔子の
高弟皆仕へざり
しこと、論語に
見ゆ、時を得て
楽しめば伊尹傳
説となり、時を
得ず憂ふれば顔
回閔子騫となる。
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