山田準『洗心洞箚記』(本文)270 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.12.22

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『洗心洞箚記』 (本文)

その270

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

下 巻訳者註

     一二〇 李延平先生始めて書を以て羅予章先生に謁  す。略に曰く、「之を聞く、天下に三本あり、  父之を生み、師之を教へ、君之を治む、其の一を    闕けば則ち木立たずと。古の聖賢師あらざること       莫し、七十二子の徒、孔子を得て益々明かなり。        つた  孟氏の後、道伝ふる所を失ふ。其の徒を聚めて相          くとう             や  伝授する者は、句読文義のみ、之を熄むと謂うて  可なり。惟だ先生は亀山の講席に服膺すること年     いは            ふでん  あり、況んや嘗て伊川の門に及び、不伝の道を千                ぐ ひ ふつすゐ  と  五百歳の後に得るをや。の愚鄙、祓を操つて                  こゝ  以て掃除に供はらんと欲すること、茲に幾年なり。 いたづら  徒に挙子の業を習ふを以て、復た門下に役せらる           けん/\  るを得ず。而も今曰拳拳として教を求めんと欲す                      お も  る者は、求むる所利禄より大なるものあるを以謂  へばなり。道は以て心を治むべし。猶食の飽に克        ふせ         うれひ  ち、衣の寒を禦ぐごとし。人餞寒の患に迫るもの     くわう/\     はかりごと   ざうじてんぱい  あらば皇皇として衣食の謀を為し、造次顛沛も未  だ始めより忘れざるなり。心の治らざるに至つて       お   おもんばか  は、世を没へて慮るを知らざるあり、豈心を愛す     こうたい  し  ること口体に若かざらんや、思はざること甚し  云々」と。先生の此の書を玩味するに、亀山が嘗  て明道先生に見えしの書と同一意なり、而て先生  の学の純粋正大なること見るべし。其の徒を聚め            くとう  て相伝授する者は、句読文義のみ、求むる所、利             たく              いづく  禄より大なるもありとの卓見にあらずんば、焉ん     いらくえんげん  ぞ能く伊洛淵源の味を得るに足らんや。然れども、   には          おどろ  人遽かに之を読まば、則ち駭きて、以て狂と為さ  ん、何となれば周亡びて漢に至るまで、名儒碩学、         はんぱんひん/\     しばら  其の朝に林立し彬彬たり。姑く漢に就いて之            しんこう    かきうかう  を言へば、則ち儒林は申公より瑕丘江に至るまで         りう しゆく  か   ば      やうか  凡そ七人、而て劉・叔・賈・馬亦た儒なり。楊何    ぼうぼう         ゆう    きやうかう  より房鳳に至るまで凡そ二十有七人、而て匡衡・  やうゆう      りうこん   さいげん  楊雄等亦た儒なり。劉昆より蔡玄に至るまで凡そ          ばゆう ぢやうげん  四十有一人、而て馬融・鄭玄等亦た儒なり。而て        へ            へ      いた  又た三国を更、六朝隋唐を歴て宋に迄るまで、儒     学勝げて記すべからざるなり、而て先生の之を抹                     にはか  殺するに句読文義を以てす。故に曰ふ、人遽に之      おどろ  を読まば駭いて以て狂と為さんと。然れども其の   とうちうじよ おうちうえん かんたいし  中董仲舒、王仲淹、韓退之数公を除くの外は、実                       しう  に其の謂はゆる道を見得せる者あらざるなり。終  しんさつし         はうちやく  身冊子文字の上に放著せるのみ、先生豈我れを欺  かんや。而て道を見得する能はざるは、他無し、  利禄の念惟だ是れ蔽へばなり。故に胸万巻に富み、    くち           こゝ  而て口錦繍を吐くと雖も、其の志此に在つて彼れ               がんびん  に在らず、則ち其の求むる所顔閔と背馳す。之を   す       こゝろざし  総ぶるに、志利禄に在るを以て、故に句読文義に  従事するなり。句読文義に従事するは、則ち利禄  を求むるなり、首尾を相為す、而て道の伝らざる   こゝ           も  がうさう   ゑん  は此に在り。先生本と豪爽にして轅を改め、道を   らもん          へ     いらく さかのぼ  羅門に求め、以て亀山を歴て、伊洛に溯り、千歳   ふでん          しやう  不伝の道を得、而て又之を紫陽に授け、終に天下  だうとう りやうせき           ゐ         しか  道統の梁脊となる、豈亦た偉ならずや。而らば後  進何を以て、其の道味を窺ひ得ん、亦た他無し、  只だ先生の教に従はば則ち必ず得ん。教とは何ぞ、                    心を治むるの功を以て、衣食の謀に易ふれば則ち   ち か  庶幾し。


李延平。李
字は中、羅予
章に従学す、仕
へず、朱子嘗て
師事す、延平先
生と称す。

七十二子。孔
子世家に、孔子
の弟子、身六芸
に通せし者七十
二人とあり。


伊川兄明道の
墓に序して曰ふ
「孟子死して聖
人の学伝らず、
先生千五百年の
後に生れ、不伝
の学を遺経に得
云々。」

。はたき
や箒。

挙子の業。科
挙試験の業。






造次顛沛。造
次はかりそめの
義、顛沛は艱難
の義、論語に見
ゆ。














伊洛。伊水洛
水、二程子の居
りし処、程学を
いふ。

彬彬。盛
んに美しい。

申公等七人、
漢書儒林伝に見
ゆ。
劉向、叙孫通、
賈誼、司馬遷、
漢書列伝に見ゆ。
楊何等二十有
七人、漢書儒林
伝に見ゆ。
匡衡、楊雄、
漢書列伝に見ゆ。
劉昆等四十有
一人、後漢書儒
林伝に見ゆ。
馬融、鄭玄。
後漢書列伝に見
ゆ。



董仲舒は前漢、
王仲淹は文中子
と称す。随代の
人皆大儒、韓退
之は唐の韓愈、
文儒。





志利禄に在つ
て道に在らず。

顔閔。孔門の
顔回・閔子騫。





轅を改。行き
方を変へる。



紫陽。朱子紫
陽書院に主たり。

梁脊。棟梁脊
髄。


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