山田準『洗心洞箚記』(本文)272 Я[大塩の乱 資料館]Я
2010.12.24

玄関へ

大塩の乱関係史料集目次


『洗心洞箚記』 (本文)

その272

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

下 巻訳者註

                 どうせいしんぎぜんあく 一二一 李延平先生性を論じて曰く、動静真偽善悪      は、皆対して之を言ふ。是れ世の謂はゆる動静真  偽善悪にして、性の謂はゆる動静真偽善悪にはあ          らざるなり。惟だ静を未だ始めより動あらざるの  さき  先に求めて、而て性の静見るべし。真を未だ始め  より偽あらざるの先に求めて、而て性の真見るべ  し。善を未だ始めより悪あらざるの先に求めて、  而て性の善見るべし」と。謹んで按ずるに、性の                     せいくわん  静、性の真、性の善は、未発に在つて之を静観す  るにあらずんば、則ち決して見るべからず。もし   み え  見得ば、則ち先生常に云ふ所の道なるものならん             や。先生静坐して、夫の喜怒哀楽未発以前の気象            ちう  を験し、以て謂はゆる中を求めたるは此を以てな                      こゝ  り。而て先生之に因つて終に天下の大本真に是に       しよくしよどうぜんはんおうきよくたう  在るを知り、触処洞然、泛応曲当、発すれば必ず    あた            たが  節に中り、現に事ふれば孝、左右違ふなし、其の              かう  せい   たい  事諸書に見ゆ、則ち静観の效、盛且つ大にあらざ  らんや。且つ其の人を教ゆるに亦た曰く、「学問             た  もくざちようしん     たいにん  の道は多言に在らず、但だ黙坐澄心天理を体認す、  かく               たいちやう  是の若くば一毫私欲の発と雖も亦た退聴せん」と。  学者固より有用の書を読まざるべからずと雖も、  而も一向放奔して、反求するを知らずんば、則ち  亀山門下相伝の指訣を失了せん。則ち道に於ける  や益々遠く、何ぞ太虚の本体に帰するを得んや。  しか      ふ と し  爾らば則ち独り浮屠氏の笑ふのみにあらず、流俗       し ぎ    はんぎ し             うべ  人と雖も指議して以て扮戲子と為さんこと、宜な                    これ  り。故に吾が輩は読む所の経義を以て、諸を身心                      くわつもく  に求むれば可なり。静坐の説の如きは、則ち刮目  中に在り、斯に贅せず。   李延平先生論性曰、「動静真偽善悪、皆対而   言之、是世之所謂動静真偽善悪、非性之所   謂動静真偽善悪也、惟求静於未始有勤之先   而性之静可見矣、求真於未始有偽之先而   性之真可見矣、求善於未始有悪之先、而   性之善可見矣、」謹按、性之静、性之真、性   之善、非未発而静観之、則決不見   矣、若見得焉、則先生当所云道也者乎、先生   静坐、験夫喜怒哀楽未発以前気象、以求   謂中、以此也、而先生因之終知天下之大本   真在乎是、触処洞然、泛応曲当、発必中節、   事親孝、左右無違、其事見於諸書、則静観   之效、非盛且大矣乎、且其教人亦曰、「学   問之道、不多言、但黙坐澄心、体認天理、   若是雖一毫私欲之発亦退聴矣、」学者雖固   不有用之書、而一向放奔、不   反求、則失了亀山門下相伝指訣、則於道也   益遠、何得乎太虚之本体也哉、爾則非独   浮屠氏笑、雖流俗人指議以為扮戲子、宜、   故吾輩以読之経義、求諸身心可也、如   静坐之説、則在刮目中、斯不贅、


李延平。前出皆対。相対的。



以下絶対的。









未発。中庸に
「喜怒哀楽の未
だ発せざる、之
を中と謂ふ、発
して節に中る、
之を和と謂ふ」
とあり。


大本。中庸に
「中は天下の大
本なり」とあり。

触処洞然。接
触する処、明朗
洞視、障りなし。
泛応曲当。ひ
ろく各方面に応
じて、つぶさに
該当して誤りな
し。

孟子に「左右
原に逢ふ」とあ
り

退聴。私欲が
退いて本心の命
令を聴く。






浮屠氏。仏教
徒。

扮戲子。俳優。
(やくしや)。



刮目。中斎別
に古本大学刮目
の著あり。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その271/その273

大塩の乱関係史料集目次

玄関へ