山田準『洗心洞箚記』(本文)276 Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.1.11

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『洗心洞箚記』 (本文)

その276

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

下 巻訳者註

一二五 朱子曰く、「宇宙の間は、一理のみ。天之             を得て天となり、地之を得て地となる。而て凡そ  天地の間に生ずるもの、又た各々之を得て以て性                       と為す。其の之を張つては三綱となり、其の之を    紀しては五常となる、葢し皆此の理の流行にして、    適くとして在らざる所なし。其の消息盈虚循環し     て已まざるが若きは、則ち未だ始めより物あらざ  るの前より、以て人消し物尽くるの後に至るまで、  終れば則ち復た始まり、始まれば復た終りあり、             とゞま  又た未だ嘗て頃刻の或は停るあらざるなり」と。  謹んで按ずるに、先儒の天地人物の終始を説くは、  朱子の此の章より明晰なるは莫し。而て又た人物  消尽の期あるも、而も太虚の霊気は、未だ嘗て一                    たびも息むことあらざるを見るべし。張子曰く、     「鬼神は常に死せずと」、亦た是の意なり。程子          曰く、「堯舜は他れ幾千年、其の心今に至つて在  るを知る」とは、亦た只だ是の意なり。   朱子曰、「宇宙之間、一理而已、天得之而為   天、地得之而為地、而凡生於天地之間者、   又各得之以為性、其張之為三綱、其紀之   為五常、葢皆此理之流行、無適而不在、   若其消息盈虚循環不已、則自始有物之   前以至人消物尽之後、終則復始、始復有終、   又未嘗有頃刻之或停也、」護按、先儒説   天地人物之終始、莫晰於朱子此章、而又   可人物消尽之期、而太虚之霊気未嘗   有一息也、張子曰、「鬼神常不死、」亦是   意也、程子曰、「堯舜知他幾千年、其心至今   在、」亦只是意也、






理を世に張り
掲げては、父子
親、君臣義、夫
婦別の三綱とな
る。

理を條別(紀)
しては仁義礼智
信の五常となる。














張子。張横渠。

一理の流行死
せざりなり。

堯舜の心。幾
千年後の今も死
せず、亦一理流
行の意。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その275/その277

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