山田準『洗心洞箚記』(本文)286 Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.1.30

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『洗心洞箚記』 (本文)

その286

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

下 巻訳者註

            くわんじん  おほむ こそく 一三三 陸子曰く、「後世寛仁は、類ね姑息に出づ        いやしくぶんち  と言ふ。殊に苟も文致に出でずして、而て其の情   あた           じつじん  に当る、是れ乃ち実仁なるを知らざるなり。故に          ぐしゆん        しえいりやうくわん  吾れ嘗て曰く、虞舜孔子の寛仁は、吾れ四裔両観                    りんあん  の間に於て之を見る」と。又た曰く、「臨安の四  せいくわん           かたむ      みな      たうし  聖観、六月の間城を傾けて士女咸出でて祷祠す。            ききやう        かく  或問ふ、何を以て人の帰郷を致すこと此の如きか              しやうばつ  と。答へて曰く、只だ是れ賞罰明らかならざるの         けいせい  み」と。陸子の経世の才は、此の二條に見ゆ。昔      いいん  しん           ひ  人陸子を伊尹がに在りし時に比す。而て陽明子        しせい       な  の大功業は、子静の事功を做し出し来ると云ふ。    いは                  とゞ  是れ謂れなきにあらざるなり、学者宜しく心を留  むべし。   陸子曰、「後世言寛仁者類出於姑息、殊不   知苟不於文致、而当其情、是乃寛仁   也、故吾嘗曰、虞舜孔子之寛仁、吾於四裔両   観之間之、」又曰、「臨安四聖観、六月間   傾城士女咸祷祠、或問何以致人帰郷此、   答曰、只是賞罰不明、」陸子経世之才、見於   此二條、昔人比陸子於伊尹在、而陽明   子大功業、做出子静事功来云。是非謂也、   学者宜心焉、


姑息.其の場
逃れの、善い加
減の手段。

文致。法律を
あやつりて、人
を罪に羅致する。

四裔両観。裔
は辺境、舜が四
凶を四裔に流せ
しこと書経堯典
に出づ。観は闕
にて公門の両傍
にある物見の楼、
孔子魯の政を執
り、悪人少正卯
をこゝに配す。

臨安四聖観。
臨安は南宋の都
せる今の杭州府、
観は道教の寺な
り、四聖は黄帝、
岐伯、秦越人(扁
鵲)張機を祀る
処。

帰郷。帰し向
ふ、即ち信仰。

伊尹は初め有
の野に耕せり。

子静。陸子の
字。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その285/その287

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