山田準『洗心洞箚記』(本文)36 Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.5.24

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『洗心洞箚記』 (本文)

その36

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

上 巻訳者註

         じゆくすい 四九 吾れ以て常人熟睡する時は反て生き、而て明覚   の時は反て死すと為す。何となれば、熟睡する時   は身死する如しと雖も、然れども心に一念なし。   心に一念なければ、則ち心徳全し、吾れ故に以て   反て生くると為す。而て明覚の時は身固より生活   す、而て心に雑念を起す。心に雑念を起せば、則   ち心徳亡ぶ、吾れ故に以て反て死すと為す。因て   思ふ、人学んで而て覚むる時に、睡むる時一念な                      ていせい   きが如きの地に到らざれば、則ち豈大学の定静と           云はんや、豈周子の無極にして太極と云はんや。    吾以為常人熟睡時反生、而明覚時反死矣、何    者、熟睡時身雖死、然心無一念矣、心無    一念則心徳全焉、吾故以為反生、而明覚時    身固生活、而心起雑念矣、心起雑念則心徳    亡焉、吾故以為反死、因思人学而不覚時    如睡時無一念之地、則豈大学之定静云乎哉、    豈周子之無極而太極云乎哉、















大学の定静。
大学の首章に
「止りを知つて
而て後能く定ま
る、定まつて而
て後能く静な
り」とあり。

周子云々。周
子名は敦、字
は茂叔、濂渓と
号す、宋の道学
の祖、太極図説
を著はす、無極
云々は其の首語、
近思録首巻にも
見ゆ。太極とは
天地の道、無極
とは声も形もな
き義。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その35/その37

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