山田準『洗心洞箚記』(本文)38 Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.5.26

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『洗心洞箚記』 (本文)

その38

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

上 巻訳者註

  じやうしよ   おく           そむ 五一 穣苴期に後れし寵臣を斬り、孫武約に背ける愛  姫を斬る。世此れを以て二子の創意と為す。決して                 二子の創意にあらざるなり。周官大司馬の法より来            ぢん        せい  る、曰く、羣吏誓ひを陳前に聴く、牲を斬つて以て    ぢん  とな  左右陳に徇へて曰く、命を用ひざる者は之を斬らん          と。又た曰く、致に及び大常を建て、軍衆を此し、  後れ至る者を誅せんと。二子は真に斯の事を行へる  のみ。春秋戦国問の名将は、皆成周の軍制に明かな                     はうゑつ  り、特に二子のみにあらざるなり。然れども彭越が  最も後れし者一人を誅せるは、此れ則ち必ず二子の ひそ   なら  顰みに傚へるものか。   穣苴斬期寵臣、孫武斬約愛姫、世以此   為二子之創意焉、決非二子之創意也、自周官   大司馬之法来、曰羣吏聴誓于陳前、斬牲以左右   徇陳曰、不命者斬之、又曰、及致建大常、   比軍衆、誅後至者、二子真行斯事焉耳、春秋   戦国間之名将、皆明於成周軍制、非特二子也、   然彭越誅最後者一人、此則必傚二子之顰者歟、


穣苴。司馬穣
苴、戦国時代の
名将、其の事史
記に見ゆ。

孫武。孫子十
三篇の著者呉王
の為めに戦法を
講す、其の事史
記に見ゆ。

周官。周礼夏
官の條。

致云々。致は
軍衆を聚むるこ
と、大常は旗、
比は隊伍を調へ
ること。

彭越。清初の
将軍。

醜婦が西施の
眉をしかめたる
をまねたる故事、
荘子に見ゆ。


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