山田準『洗心洞箚記』(本文)47 Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.6.14

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『洗心洞箚記』 (本文)

その47

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

上 巻訳者註

          いつ 六二 孟子謂はゆる志壱なれば則ち気を動かし、気壱               か  つま       はし  なれば則ち志を動かす。今夫の蹶づく者、趨る者、                      しようざん  是れ気なり、而も反つて其の心を動かすと。象山先  生之を説いて曰く、志壱なれば気を動かすは、これ  論ずるを待たず。独り気壱なれば志を動かすは、未                       けつすう  だ人をして疑ひなからしむる能はず。孟子また蹶趨  心を動かすを以て之を明らかにす、即ち以て疑なか         せん                 すゐ た  るべし。壱とは専一なり。志固より気の帥為り、然  れども気の専一に至つては、則ち亦たよく志を動か                すなり。故に但だ其の志を持すと言ふのみならず、              そこな  又た之を戒むるに其の気を暴ふなかれを以てす。居      せつせん                べん  処飲食、節宣の宜しきに適し、視聴言動、邪正の弁                   を厳にす、皆其の気を暴ふなきの工なりと。吾れ謂           けふじ          おちい  ふ学人に在つて志気夾持の工夫なき者は玄虚に陥ら          しり  ざれば、則ち必ず支離す。故に功を用ふる当に此の  如くなるべし。然れども成徳の君子は、則ち気一に  志に聴くのみ。又た安んぞ気の志を動かすことあら           つまづ  ん。何となれば則ち蹶く者は、心在らざるを以ての                     さうしつ  故なり。恭敬の人の如きは則ち決して此の躁失なし、            はし  况や成徳の君子をや。趨るも亦た常人に在つては則  ち気其の事を為す、故に亦た志を動かす。然れども                   ちてい  大人君子は千軍万馬の中に在つて、馳騁出入す、こ  れ皆趨るなり。而て理に本づき、志に発し、以て其     つか  の気を使ふ、故に気の志を動かすことなし、居処飲             せつせん        かな  食、視聴言動、皆心其の節宣の宜しきに適ひ、其の               ぐていせいいつ  邪正の弁を厳にす、即ちこれ虞廷精一の学なり。   孟子所謂志壱則動気、気壱則動志也、今夫蹶者   趨者、是気也、而反動其心、象山先生説之曰、   志壱動気、此不論、独気壱動志、未使   人無疑、孟子復以蹶趨動心明之、即可以無   疑矣、壱者、専一也、志固為気之帥、然至於気   之専一、則亦能動志也、故不但言其志、又   戒之以其気也、居処飲食、適節宣之宜、   視聴言動、巌邪正之弁、皆無其気之工也、   吾謂在学人志気夾持之工夫者、不玄虚、   則必支離矣、故用功当此、然成徳君子則気一   聴志而已、又安気動志之有、何則蹶者、以心不   在焉故也、如恭敬人則決無此躁失、况成徳君子   乎、趨亦在常人則気為其事、故亦動志、然大   人君子在千軍万馬中、馳騁出入、此皆趨也、而   本於理、発於志、以使其気、故無気動志矣、   居処飲食、視聴言動、皆心適其節宣之宜、巌其   邪正之弁、即是虞廷精一之学也、



公孫丑上篇養
気章。

象山。陸象山、
名は九淵、字は
子静、金渓の象
山に居る、朱子
と論学し、朱陸
の称あり。















工。工夫手段.

夾持。志と気
との両方から持
守す。

玄虚。老荘の
空漠。

支離。離れて
統一せぬこと。












虞廷精一。虞
舜の朝廷で禹に
授けて「人心惟
れ危く、道心惟
れ微なり、惟れ
精、惟れ一、允
に厥の中を執
れ。」と曰ふ、
書経大禹謨に見
ゆ。


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