山田準『洗心洞箚記』(本文)50 Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.6.17

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『洗心洞箚記』 (本文)

その50

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

上 巻訳者註

               六六 朱子の書を読むは固より論なし。陽明王子以前  の朱学諸子の書は、猶宜しく之を読むべきなり、其                         体用の支離と、知行合一せざるとの如きは、即ち掌          こらん  を指す如し、嘗て胡乱せず、過を掩はざる者に庶き  なり。陽明王子以後の朱学諸子の書は、則ち初学之  を読まざるも可なり。何となれば則ち大抵客気勝心          ●        ●  あるものにして、王を抑へて朱を揚げんと欲す、故   かろうほてつ  に漏補綴し、支離なくして合一を為す如し。然れ  ども良知を以て仇と為し、之を度外に舎く、則ち要        のこ  するに本体を遺して言語に流る、焉んぞ過を掩ふを  免るるを得んや。過を掩ふは小人の情状にして、良       ぎしう  知を舎つるは義襲の粗工なり。初学之を読まば、則     めいびゆう  ち必ず迷繆せん。終に身心の修正を得る能はざるな  り。故に曰く、之を読まざるも可なりと。而て学問                    精熟に至らば、則ち之を読むも亦た奚んぞ害せんや。           らん  主宰あらば、則ち一覧して其の是非得失、心目の間   れう                に瞭然たらん。これ朱を抑へて王を揚ぐるの私にあ               らず。後輩得るなくして俗学に陥らんことを患ふ、        故に之に詔ぐるなり。   読朱子書固無論矣、陽明王子以前、朱学諸子之   書、猶宜之也、如其体用之支離、知行不合   一、即如掌、嘗不胡乱、庶乎不過者   也、陽明王子以後、朱学諸子之書、則初学不   之可也、何則大抵有客気勝心者、欲王而揚   朱、故漏補綴、如支離而為合一、然以   良知仇、舎之於度外、則要遺本体而流言   語、焉得過也哉、掩過小人之情状、舎   良知義襲之粗工、初学読之、則必迷繆矣、終不   能身心之修正也、故曰不之可也、而至   学問精熟、則読之亦奚害哉、有主宰、則一覧   而其是非得失、瞭然乎心目間矣、不是抑朱而   揚王之私、患後輩無得而陥俗学、故詔之也、



論なし。言ふ
までも無い。

体と用とが二
つに分れること。

掌を指す。明
瞭なること。

胡乱。紛れ疑
はしきこと。

王。王陽明。

朱。朱熹。

缺点をつゞく
ること。




義襲。孟子養
気章の語、義も
て襲ひ取る即ち
本心に本づかぬ
形式的な所行。



主宰。良知。




俗学。本心に
本づかぬ学問。


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