山田準『洗心洞箚記』(本文)60 Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.7.8

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大塩の乱関係史料集目次


『洗心洞箚記』 (本文)

その60

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

上 巻訳者註

                  七八 心を存するに二あり。聖賢より已下、心を理に                       よく  存するは、固より無かるべからざるなり。心を欲に  存するは決して有るべからざるなり。然れども心を  欲に存するは即ち易くして、而て心を理に存するは                    乃ち難し。古人の詩に云ふ所の、「呼び起す十年心              上の事。春風楼下花を売るの声」と、是れ亦た心を         ちか            じこく  欲に存する者に庶し。故に学者省察の工夫、時刻も  廃すべからざるは、これを以てなり。   存心有二、自聖賢已下、存心於理、固不   無也、存心於欲、決不有也、然存心於欲即   易、而存心於理乃難矣、古人詩所云、「呼起十   年心上事、春風楼下売花声、」是亦庶乎存心於   欲也、故学者省察之工夫、不時刻廃、以   此也、











呼起云々。宋
人の句、花を売
る声を聞いて、
十年も前の快心
の事を憶ひ起す。

時刻。一時一
刻。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その59/その61

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