山田準『洗心洞箚記』(本文)68 Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.9.25

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『洗心洞箚記』 (本文)

その68

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

上 巻訳者註

       八八 或問ふ、子産の孔子に於ける、仁智如何と。曰  く、仁は固より及ばず、而て智も亦た及ばざるなり。  請ふ之を論ずるに小を以てし大を以てせざらん。子   かうじん               みだり  産校人をして生魚を池に畜はしむ。これ妄に殺すを                     ちか  欲せずして之を水に放たしむるなり、仁に庶し。而               ぎよ\/  て人之を烹て、反命して曰く、圉圉たり、洋洋たり、  いう       ゆ             きまう  攸然として逝けりと。子産之を信ず、これ欺罔の別  ありと雖も、果して智か、抑々不智か。孔子の 畜  狗死するや、之を埋むるに席を以てし、首をして陥                   ぼくれい  らしむる毋らしめたるは仁なり。其の僕隷を使はず  して、高弟端木氏を使へるは智なり。僕隷を使はば、          しれい  則ち未だ孔子の指令の如く首をして陥らしむる毋か  りしかを知るべからざるなり。もし首をして陥らし         めば、則ち但だ不智なるのみにあらず、其の仁も亦                       しう  た之が為に失はれん。子の小事に於ける、自然に周   ち      も       かく  致にして漏らさざること猶此のごとし。是れ聖人の  聖人たる所以にして而て子産の及ぶ所にあらざるな  り。而て子産安んぞ仁智を尽すを得んや。もし亦た        うらみ  仁智を尽して憾無くば、便ち是れ亦た聖なり。特に  子産のみにあらざるなり。   或問、子産之於孔子、仁智如何、曰、仁固不   及、而智亦不及也、請論之以小不大、子産   使校人畜生魚池、此不妄殺而放之水也、   庶乎仁、而校人烹之、反命曰、圉圉焉、洋洋焉、   攸然而逝、子産信之、此雖欺罔之別、果智   乎、抑不智乎、孔子之畜狗死、埋之以席、毋   首陥焉仁也、其不使僕隷、而使高弟端木氏智   也、使僕隷、則未孔子之指令   首陥也、如令首陥、則非但不智、其仁亦為之   失矣、子之於小事、自然周致不漏猶如此、是聖   人之所以為聖人、而非子産之所及也、而子産   安得仁智也哉、如亦尽仁智而無憾、便是亦   聖矣、非特子産而已也、



子産。鄭の名
相、孔子屡々之
を賞揚す。

校人云々。此
の事、孟子万章
上篇に見ゆ。校
人は小吏。

圉々云々。圉
々は苦しみて自
由にならぬ貌、
洋々はのび\/
とする、攸然は
悠然。

欺罔。欺は単
にあざむく、罔
は道理なきこと
をおしつけてだ
ます。








周致漏らさず。
周到緻密にして、
手ぬかりのない
こと。


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