山田準『洗心洞箚記』(本文)72 Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.9.29

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『洗心洞箚記』 (本文)

その72

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

上 巻訳者註

九二 学者心性の理を明らかにし、天人の義を知ると            ぎらい さうふく  ぼく   でん  云ふと雖も、然れども儀礼の喪服及び卜氏の伝に精  通せざれば、則ち人倫の差等微の処に於て、分暁  明白なること能はず。もし分暁明白ならざれば、則            し き  ち其の行事も未だ妄行恣空と俗とに陥るを免れざ           そむ  るなり。これ聖教に背くを知らずして自ら之に背く。  故に礼は講究せざるべからざるなり。然れども徒に  講究して経伝に精通すと雖も、心性の理を明らかに  し、天人の義を知らざれば、則ち是れ乃ち無源の学        しやうくくんこ  らう  にして、而て章句訓詁の陋に終らん、是れ亦た先聖                  へん  の教にあらざるなり。要するに一に偏することは不      あゝ    ゑん     はう  可なり。吁、聖教は円にして方、方にして円なり、         たんたう       むべ  志無くんば則ち担当し難しと。亦た宜ならずや。   学者雖心性之理、知天人之義、然不   通於儀礼喪服、及卜氏之伝、則於人倫之差等微   、不分暁明白、如不分暁明白、則其   行事未妄行恣空与俗也、是不于   聖教而自背之、故礼不講究也、然徒講   究而雖通於経伝、不心性之理、知天人   之義、則是乃無源之学、而終乎章句訓詁之陋   焉、是亦非先聖教也、要偏于一不可矣、吁、   聖教円而方、方而円、無志則難担当、不亦宜   乎、



儀礼喪服。儀
礼は礼記・周礼
と併せて三礼と
称す、喪服篇あ
り。

卜氏の伝。喪
服篇に伝あり、
ト子夏の作と称
せらる。

。気儘、
勝手。





章句訓詁。書
物読み文字調べ
ること。


円にして方。
円通とは心性天
人の方面を云ひ、
方正とは儀礼の
方面を云ふ。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その71/その73

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