一〇二 近来の作文家は、温潤含蓄を以て主と為す。
温潤含蓄は固より是なり。然れども其心を立つる所
●
を見れば、則ち古の作者と何ぞ啻だ陵谷のみならん。
●こていりん
古の作者は、顧亭林の謂ゆる道を明らかにするなり、
みんいん い
政事を紀するなり、民隠を察するなり、人の善を道
ふを楽しむなり。其明と曰ひ、紀と曰ひ、察と曰ひ、
●もうろう
楽と曰ふ、則ち其の事其の理黒白の如く、嘗て朦朧
ならざるなり。而も湿潤含蓄は余味あり、其の文を
観れば便ち見るべし。近来の作文家は、胸に先づ利
すうひ
害の心を横たふ、故に其の言を朦朧にして以て趨避
す、乃ち湿潤含蓄に似て而も湿潤含蓄にあらざるな
り。此の弊豈啻近世のみならん、晩宋に在つても然
● ●
り。朱子の余龍山文集の序の略に云ふ、「熹小時、
猶頗る前輩を見て其の余論を聞くに及ぶ。其心を立
み
て己を処するを覩るに、則ち剛介質直を以て賢とな
す。官に当り事を立つれば、則ち彊毅果断を以て得
つく
ると為す。其の文を為るに至つては、則ち又た務め
らいらく ●がんこれんけんき
て明白磊落を為し、事情に指切し、而て含糊臠巻雎
く そくび さい
側媚の態無し。之を読む者をして一再に過ぎず、
即ち暁然として其の某事を論じ、某策を出だしたる
ことを知つて、彼是疑ひなからしむるなり。近年以
しんしん りよかう
来、風俗一変し、上は朝廷の縉紳より、下は閭巷の
●ゐふ
韋布に及ぶまで、相与に一種の議論を伝習し、行ひ
●うんしやしふざう なん
を制し言を立つるに、専ら 藉襲蔵円熟軟美を以て
たつと
尚ぶことをなし、之と居る者をして、年を窮めて其
おもひ はか
の中の懐を測ることなく、其の言を聴き、日を終へ
むか
て其の意の郷ふ所を知る莫らしむ。四五十年の前を
はん
回視すれば、風声気俗、葢し啻に寒暑朝夜の相反す
た
るのみならず。是れ孰れか之をして然らしむるか、
龍山余公の文を観る者、亦た以て慨然として感ずる
●ろく ●
あるべし」と。吾れ斯の語を勒して以て徴す。
近来作文家、以 温潤含蓄 為 主、温潤含蓄、固是
矣、然見 其所 立 心、則与 古之作者 、何啻陵谷、
古之作者、顧亭林所 謂明 道也、紀 政事 也、察
民隠 也、楽 道 人之善 也、其曰 明、曰 紀、曰
察、曰 楽、則其事其理如 黒白 、不 嘗朦朧 也、
而温潤含蓄有 余味 、観 其文 便可 見矣、近来作
文家、胸先横 利害之心 、故朦 朧其言 以趨避焉、
乃似 温潤含蓄 、而非 温潤含蓄 也、此弊豈啻近
世、在 晩宋 亦然矣、朱子余龍山文集序略曰、
「熹小時、猶頗及 見 前輩 而聞 其余論 、覩 其
立 心処 己、則以 剛介質直 為 賢、当 官立 事、
則以 彊毅果断 為 得、至 其為 文、則又務為 明
白磊落 、指 切事情 、而無 含糊臠巻雎 側媚之
態 、使 読 之者不 過 一再 、即暁然知 其為 論
其事 、出 某策 而彼是無 疑也、近年以来、風
俗一変、上自 朝廷縉紳 、下及 閭巷韋布 、 相
与伝 習一種議論 、制 行立 言専以 藉襲蔵円
熟軟美 為 尚、使 与 之居者、窮 年而莫 測 其
中之懐 、聴 其言 、終 日而莫 知 其意之所 郷、
回 視四五十年之前 、風声気俗、葢不 啻寒暑朝
夜之相反 、是孰使 之然 哉、観 於龍山余公之
文 者、亦可 以慨然而有 感矣、吾、勒 斯語 以
徴焉、
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●陵と谷との相
違のみにあらず。
●顧亭林。明末
清初の儒者、名
は炎武、著者多
し、此言は日知
録十九巻に出づ。
●朦朧。曖昧ぼ
んやり。
●朱子名は熹。
●余龍山は名は
良弼、宋の学者、
良山文集あり。
●含糊云々。含
糊は物を奥に含
んではつきりせ
ぬこと。臠巻は
曲りて伸びぬこ
と。雎 は人を
悦ばせる意。側
媚は人の機嫌を
取る意。
●韋布。韋帯布
衣の略、平民。
● 藉云々。穏
かに、含蓄し、
円満にしてかど
を立てず、やさ
しく美はしの意。
●勒。録なり。
●徴。証明する
の意。
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