山田準『洗心洞箚記』(本文)80 Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.10.7

玄関へ

大塩の乱関係史料集目次


『洗心洞箚記』 (本文)

その80

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

上 巻訳者註

一〇二 近来の作文家は、温潤含蓄を以て主と為す。  温潤含蓄は固より是なり。然れども其心を立つる所                    を見れば、則ち古の作者と何ぞ啻だ陵谷のみならん。        こていりん  古の作者は、顧亭林の謂ゆる道を明らかにするなり、           みんいん             政事を紀するなり、民隠を察するなり、人の善を道  ふを楽しむなり。其明と曰ひ、紀と曰ひ、察と曰ひ、                       もうろう  楽と曰ふ、則ち其の事其の理黒白の如く、嘗て朦朧  ならざるなり。而も湿潤含蓄は余味あり、其の文を  観れば便ち見るべし。近来の作文家は、胸に先づ利                       すうひ  害の心を横たふ、故に其の言を朦朧にして以て趨避  す、乃ち湿潤含蓄に似て而も湿潤含蓄にあらざるな  り。此の弊豈啻近世のみならん、晩宋に在つても然    ●    ●  り。朱子の余龍山文集の序の略に云ふ、「熹小時、  猶頗る前輩を見て其の余論を聞くに及ぶ。其心を立           て己を処するを覩るに、則ち剛介質直を以て賢とな  す。官に当り事を立つれば、則ち彊毅果断を以て得           つく  ると為す。其の文を為るに至つては、則ち又た務め     らいらく             がんこれんけんき  て明白磊落を為し、事情に指切し、而て含糊臠巻雎   く そくび              さい  側媚の態無し。之を読む者をして一再に過ぎず、  即ち暁然として其の某事を論じ、某策を出だしたる  ことを知つて、彼是疑ひなからしむるなり。近年以               しんしん        りよかう  来、風俗一変し、上は朝廷の縉紳より、下は閭巷の  ゐふ  韋布に及ぶまで、相与に一種の議論を伝習し、行ひ              うんしやしふざう   なん  を制し言を立つるに、専ら藉襲蔵円熟軟美を以て たつと  尚ぶことをなし、之と居る者をして、年を窮めて其     おもひ はか  の中の懐を測ることなく、其の言を聴き、日を終へ       むか  て其の意の郷ふ所を知る莫らしむ。四五十年の前を                       はん  回視すれば、風声気俗、葢し啻に寒暑朝夜の相反す             るのみならず。是れ孰れか之をして然らしむるか、  龍山余公の文を観る者、亦た以て慨然として感ずる               ろく     あるべし」と。吾れ斯の語を勒して以て徴す。   近来作文家、以温潤含蓄主、温潤含蓄、固是   矣、然見其所心、則与古之作者、何啻陵谷、   古之作者、顧亭林所謂明道也、紀政事也、察   民隠也、楽人之善也、其曰明、曰紀、曰   察、曰楽、則其事其理如黒白、不嘗朦朧也、   而温潤含蓄有余味、観其文便可見矣、近来作   文家、胸先横利害之心、故朦朧其言以趨避焉、   乃似温潤含蓄、而非温潤含蓄也、此弊豈啻近   世、在晩宋亦然矣、朱子余龍山文集序略曰、   「熹小時、猶頗及前輩而聞其余論、覩其   立心処己、則以剛介質直賢、当官立事、   則以彊毅果断得、至其為文、則又務為明   白磊落、指切事情、而無含糊臠巻雎側媚之   態、使之者不一再、即暁然知其為   其事、出某策而彼是無疑也、近年以来、風   俗一変、上自朝廷縉紳、下及閭巷韋布、 相   与伝習一種議論、制行立言専以藉襲蔵円   熟軟美尚、使之居者、窮年而莫其   中之懐、聴其言、終日而莫其意之所郷、   回視四五十年之前、風声気俗、葢不啻寒暑朝   夜之相反、是孰使之然哉、観於龍山余公之   文者、亦可以慨然而有感矣、吾、勒斯語以   徴焉、






陵と谷との相
違のみにあらず。

顧亭林。明末
清初の儒者、名
は炎武、著者多
し、此言は日知
録十九巻に出づ。

朦朧。曖昧ぼ
んやり。









朱子名は熹。

余龍山は名は
良弼、宋の学者、
良山文集あり。







含糊云々。含
糊は物を奥に含
んではつきりせ
ぬこと。臠巻は
曲りて伸びぬこ
と。雎は人を
悦ばせる意。側
媚は人の機嫌を
取る意。


韋布。韋帯布
衣の略、平民。

藉云々。穏
かに、含蓄し、
円満にしてかど
を立てず、やさ
しく美はしの意。









勒。録なり。

徴。証明する
の意。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その79/その81

大塩の乱関係史料集目次

玄関へ