山田準『洗心洞箚記』(本文)83 Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.10.21

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『洗心洞箚記』 (本文)

その83

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

上 巻訳者註

一〇六 心太虚に帰すれば、則ち太虚は乃ち心なり。            がいさい  然る後当に道と学との崖際なきを知るべきなり。夫  れ人の嘉言善行は、即ち吾が心中の善にして、而て              人の醜言悪行は、亦た吾が心中の悪なり。是の故に  聖人は之を外視する能はざるなり。斉家治国平天下  は、一として心中の善を存せざるはなく、一として  心中の悪を去らざるはなし。道と学との崖際無きこ          と見るべし。或曰く、子の説の如くば、則ち悪人の    かゝ  刑に罹るは、亦た聖人の心を刑するものか。曰く、  然り。是れ即ち吾が心の悪を去るの道なり。然り而  て悲まざるを得ざるなり、豈亦た歓喜すべけんや。  曰く、善人の賞に遇ふは、亦た聖人の心を賞するも  のか。曰く、然り。是れ即ち吾が心の善を存するの                        ばう  道なり、然り而て喜ばざるを得ざるなり。豈亦た  しつ  嫉すべけんや。只だ人の善を嫉し、人の悪を歓喜         する者は、吾が心を以て我が物となす、乃ち一小人  にして、而て聖人の太虚の心にあらざるなり。然ら  ば則ち心なるものは、善悪混ずるか。曰く、心の体  は太虚なり、太虚は一霊明のみ、何ぞ善悪混ずるこ                       とあらん。然れども気の往来消長は、則ち過不及な                       れいき  きを得ざるなり。只だ其の過不及は、便ち是れ気  の由つて生ずる所なり。而て未だ嘗て太虚の霊明を              損する能はざるなり。子試みに眼を仰いで天を看よ、               則ち疑ひ亦た自ら解けん、奚んぞ吾れの弁を待たん  や。   心帰乎太虚、則太虚乃心也、然後当道与学   之無崖際也、夫人之嘉言善行、即吾心中之善、   而人之醜言悪行、亦吾心中之悪也、是故聖人不   能視之也、斉家治国平天下、無一不心   中之善、無一不心中之悪、道与学無崖際   可見矣、或曰、如子之説、則悪人之罹刑、亦   刑聖人之心者乎、曰、然矣、是即去吾心之悪   之道也、然而不悲也、豈亦可歓喜乎、   曰、善人之遇賞、亦賞聖人之心者乎、曰、然   矣、是即存吾心之善之道也、然而不喜   也、豈亦可乎、只嫉人之善、歓喜人   之悪者、以吾心我物、乃一小人、而非聖   人太虚之心也、然則心也者、善悪混焉乎、曰、   心之体、太虚也、太虚一霊明而已矣、何善悪混之   有、然気之往来消長、則不過不及也、只   其過不及、便是気之所由生也、而未嘗能   乎太虚之霊明也、子試仰眼看天、則疑亦自解矣、   奚待吾之弁哉、




崖際。限り、
はて。



太虚に暴風あ
る如し。
























吾が心、太虚
と一なるを知ら
ず。





過不及。過ぎ
たると及ばざる
とはともに悪の
根原。

気。悪気。


天に雲霧あれ
ども日月の霊光
を損ぜず。


『洗心洞箚記』(本文)目次/その82/その84

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