山田準『洗心洞箚記』(本文)88 Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.10.26

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『洗心洞箚記』 (本文)

その88

山田 準訳註

岩波書店 1940 より



◇禁転載◇

上 巻訳者註

        一一一 或、其の放心を求むるの義を問ふ。曰く、放  とは外物に取られて放出するなり、故に之を求めて         かへ  以て方寸の内に復し了るなり。方寸とは他にあらず、  太虚なり。放心を求むるは、亦た惟だ太虚に帰する        やす  の謂なり。事易きが如くして実は難し、功浅きが如  くして誠に探し、これ古今真に放心を求むる者の尤   まれ  も罕なる所以なり。又た曰く、放心を求むるは、太  虚に帰すと、既に命を聞けり。然り而て程子の言に                   すで  ほう  曰く、「聖賢の千言万語、只だこれ人已に放するの         心を将つて、之を約して反復し身に入り来り、自ら    たず                    よく尋ねて上に向つて去らしめんと欲するのみ、下  学して上達するなり」と。其の身に入り来ると謂う         かへ  て、而て方寸に復ると謂はず。能く尋ねて上に向う  て去ると謂うて、太虚に帰すと謂はず。然るに子は                        そも\/  方寸を以て身字に易へ、太虚を以て上字に易ふ、抑  亦た説あるやと。曰く、身の身たる所以は方寸の虚  あるを以てなり、もし其の虚なくば則ち不霊にして  死なり。故に吾れ則ち之を方寸と謂ふ。上なるもの  は何ぞ、仁なり。仁なるものは何ぞ、太虚の徳なり。                       太虚の徳は、仁を外にして有るなきなり。子猶吾が  説程子に異なるを疑ふか。   或問其放心之義、曰、放者、取於外物而放   出焉也、故求之以復于方寸内了、方寸非他、   太虚也、求放心、亦惟帰乎太虚之謂也、事如   易而実難矣、功如浅而誠深矣、此所以古今真求   放心者之尤罕也、又曰、求放心者、帰乎太虚、   既聞命矣、然而程子之言曰、「聖賢千言万語、只   是欲人将已放之心、約之使反復入身来、自能   尋向上去、下学而上達也、」其謂身来、而   不于方寸、謂能尋向上去、而不   乎太虚、然子以方寸身字、以太虚上字、   抑亦有説乎、曰、身之所以為身、以方寸之   虚也、如無其虚則不霊而死矣、故吾則謂之方   寸、上也者何、仁也、仁也者何、太虚之徳、太虚   之徳、外於仁而無有也、子猶疑吾説異於程子   乎、



放心。孟子告
子上篇に「学問
の道は他無し、
其の放心を求む
るのみ」とあり。

方寸。一寸四
方の義、心をい
ふ、心の太虚は
天の太虚なり。
故にこゝでは又
た太虚を方寸と
いふ。

之を約す云々。
之をひきしめ、
反しもどして身
に入り来らせる。

上に向つて。
向上に同じ。

下学上達。論
語憲問篇に「天
を怨みず、人を
尤めず、下学し
て上達す」とあ
り。



『洗心洞箚記』(本文)目次/その87/その89

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