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跋、脱稿後反古中より幕末の遺老、故栗本鋤雲翁の手記に成れる矢部駿河守の事
蹟を述べたる長文を得たり。
其概要を略記すれば、矢部氏は代々旗本にて駿河守は通称彦五郎と言ひ、非凡の
俊才にて少壮時代既に群中に異彩を放ち、諸役に転じて到る処に辣腕を振ひ、其
立身出世の速かなる時人を驚かせり。堺奉行に就職せしときは無妻総角にして、
其断訴は大岡越前企及すべからざる明捌を為せり。後大阪城代に任ぜられ、末吏
中より大塩を抜擢重用し又其圭角を戒めて巧に之れを御せり。大塩の声望は実に
背後に矢部ありて挙りたるなりき。幾もなく矢部は、江戸奉行に就任し大塩の暴
拳と相前後して誹を受け獄中に食を断ち憤死せり。而して其奇禍の原因たる又天
保度の饑饉に関係し、官府は窮民施与の為めに越後米の買上を企てたるに、事に
当りたる吏人と御用商人の結托して私服を肥せるものあり。矢部は職掌外の事に
干渉を試み為めに中傷を受け罪に落ちたるなり。
栗本翁の手記は時日人名等の細に渉りて洩らす処無く、当時尚世人の記憶に残れ
る故人の誣を弁ぜんが為に明治四年の報知新聞に投じ連載せられたるものなり。
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文中矢部を構陥せる鳥居甲斐守は曜蔵と称し、当時の志士に妖怪と云はれし人に
て、維新後尚生存し親戚にまで絶交されたり。又常に鳥居が重用せし渋川伴蔵と
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言へる俗吏も悪むべき輩にて、此二人は故高野長英、渡辺華山等の活学者を刑せ
る奸物なりなどの項あり。又著名の藤田東湖は矢部の人物を賞賛し、わざ/\訪
問して知見を求め、旦矢部刑死の報を聞きて長篇の詩を作り之を寃なりとし、其
詩を掲げたり。其他当時有用の才を用ふる能はずして自他に災害を招ける例を数
へ、幕末の悲運の不得止を歎ぜり。此書参考の資料として愛蔵す。摘記して茲に
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追尾せり。(妖怪は曜甲斐の意の罵称)尚其手記の中は官府に尊けれど吏人の所
置に失当無しと断ずべからす。私曲の判断亦言論の調開に由つて転倒するものあ
らんとの意見をも洩らせり。
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栗本鋤雲
(1822〜1897)
幕末の幕臣、
明治初期の思想家
矢部は堺奉行
のあと大坂西
町奉行となる、
大塩はすでに
退職
川崎紫山
「矢部駿州」
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