恐ろしく
目が光る
大塩は外
国船に在
り
死せる大
塩、名士
を騒がす
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坦菴と弥九郎と甲州に行つた時のことに就いては、一切事実の材料なり書類なり
は伝はつて居らない。併しながら此の両人が甲州微行中の図を、坦菴自ら画いた大
きな画幅が残つて居る。坦菴は刀剣商に扮して居る。此の二人共抜群の大男であつ
て、就中坦菴は眼光爛々人を射るといふ風采であつたから、変粧するにも、優さし
い商賈には成れず、先づ刀屋になる位が名案で有つたであらう。此の時の逸事は、
色々韮山に存して伝はつて居る。甲州の或宿屋では、宿の女が弥九郎に向つて、お
連れの方は恐ろしく眼が光ると云うさうである。それは坦菴のことを指したのであ
つた。坦菴は忍んで自分の家を出で、自分の家人にも甲州微行といふことは知らせ
ずに、余程秘密に此の探索をした。又彼の奥方も、如何にも彼を病気にて引籠つて
居るやうに見せ掛ける為には、非常な苦心をせられたといふことである。此れ程ま
でに調べても竟に関東では大塩父子の行衛に就いての手掛らは更に無かつた。先づ
大塩は関東には落延びて来ないと信じ得る位になつた。併しながら、或は海上よら
大島、八丈島、若くは更に東の方に逃延びないとも限らぬといふ想像は、まだまだ
関東の志士の頭から取り去る訳には行かなかつた。
大塩は二月十九日に暴動を起して.三月の廿六日に、大阪に潜伏して居ることが
露見して自殺をした。それで暴動事件も大阪に於ては一段落を告げたのであるが、
併しながら、此れに就いては一の疑ひの風説が伝はつて居る。まだ疑の起つたのも
尤もである。それは前月の十九日から翌月の廿六日まで三十有余日の間、大阪の町
の中に大塩が居つても、遂にそれが分らなかつたといふことは、大塩を隠匿する人
が如何に深く彼に帰依して居るかゞ想像せらるゝことである。且つ其の証人が、此
れが大塩であるといふことに依つて、始めて大塩たることが証明せられたのである
けれども、若し其のことが無かつたならば、竟に大塩の行衛は不明な訳である。而
して自殺――自害といふものも、甚だ怪しむべき点が多かつた。異に大塩が死んで
仕舞つたか、或は大塩の死骸といふのは其の実は別人であるかゞ、まだ容易に決定
すべからざることであるといふ風説である。かう云ふ疑の風説は、容易に消えて去
るものでは無い。随つて、いろ\/の臆説が続いて生れて来る。若し大塩が真に死
せずとすれば、彼は果して如何なる方面に身を隠したであらうか、或は遠く高飛び
したであらうといふ疑が半年を経過しても消去ることが出来なかつた。半年どころ
か翌年に至つても、まだ却々其の評判が続いた。是に就いては一つ面白いお話があ
る。此の年の十月廿九日の日附の渡辺華山がら江川坦菴に贈つた手紙の中に、大塩
の亜光利加船に乗込んだ風説が書いてある。先年西郷隆盛が露西亜の船に乗つて帰
朝するといふ怪聞が有つたが、先つそれと古今一対の怪聞である。偖、華山の手紙
には、房州間村の漁夫が、沖漁に出掛けた処が、亜米利加船の中に大塩が乗込んで
居るといふ風聞を得た。尤も謂はれ無き好奇の浮説ではあらうけれども、それを聞
いて帰つたものは、渡辺公平といふ昌平黌の書生であつて、それから狩野宗得とい
ふ絵師が、それを伝聞して、それから又た佐藤信淵が開いて華山に伝へた。華山は
不思議な怪聞とは思つたけれども、打捨て置く訳にも行かぬといふので、処ろ\゛/
探索したけれども竟に分らないといふことを、坦菴に申し送つた。昔し死せる孔明
は生ける仲達を走らしたといふことがある。それとは事変れども、歿後の大塩は大
分天下の名士を騒がしたものである。又た以て大塩の暴動が如何に幕府の政治に大
打撃を与へたか又た当時交通不便の為に世上の事が分らずして、斯かる問題に際し
ては、意想外に政治家を苦しめたかゞ思遣られるのである。
序でながらお話する事がある。大塩が、亜米利加船に乗込んで居るといふ風説を、
坦菴に伝へた者は華山であるが、華山は、又た、金忠輔が、カリホルニヤの王とな
つたといふ風聞を伝へた人であつた。これで見ると、華山は、却々此の種の奇聞を、
多く貯へた人である。此れほどの大人物が、飛んだ奇聞を、多く伝へるのは、チヨッ
ト可笑しいやうではあるが、蓋し、華山は、つねに、外国事情の探聞に熱心であり、
而して多くの人に交際して居たから、自然かゝる風聞をも、多く知つたのであらう。
惜しまれる大人物の非命の最期に就ては、必らず小説的の風聞が、生れて来るもの
である。
却説、暴動後の大塩に就いては、更に、引合に出すべき名士がある。それを少し
くお話し致したい。
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HP
「重要文化
財江川邸」
内
「民政」
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