Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.8.4

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎」

その6

横山健堂(1871−1943)

『人物研究と史論』金港堂書籍 1913より転載


◇禁転載◇

  (五)管理人註

暴動の真 相 暴動中の 平八郎

 暴動の真相は、風説紛々として殆ど底止する所を知らざる有様である。既にこれ 迄の史籍に一通り出て居ることではあるが、試みに一説を挙げて見る。与力の本多 為助の話に拠ると、奉行から江戸に差出した報告は、大に事実を誤つたもので、皆 手前勝手な都合の宜いこと計りを書いて居るといふやうに話して居る。此の時の城 代町奉行などの狼狽の有様から察すると事実として幕府に提出したる書類は、果し て真実のものでは無かつたらうと思はれぬでも無い。  此の暴動は、実に偶然のことであつて、其の場に居合はせた人でも、大塩が暴動 するといふ風説はあるが、それは虚説であらうなどゝいふものが、大阪の城中にも 市中にも大分有つた。大塩が火を放ち大砲を打つても、城中の与力などではあれは 大塩が百姓一揆を防ぐのであらうと、反対の方面に想像を向けて居る位であつた。 京都となれば、何にしろ大塩の暴動が事実といふことの聞えたのは、暫らく時間を 経過してのことであつた。当時交通期間の極めて不完全な世の中の常として、種々 様々の風評がそれからそれと伝はつて、後に暴動の事実を書いたものも、広く諸説 を集めたものでもなく、又た集めたとしても、それが果して真実であるか否やは、 容易に決し難い問題である。  当時大阪或は京都辺から諸方へ此の暴動を通知した手紙類を色々見ると、実に面 白い事が沢山有る。此処に暴動の事実を穿鑿するのは自分の目的ではなく、唯だ其 の風説の一二を当時の通信書類に拠つてお話して見て、大塩暴動の影響を想像する の材料に供したい。大塩が大砲を打つたことは非常な評判である。斯ういふ話も伝 はつて居る。「大塩方に車に仕掛けた大筒が四五挺有つて、町々を押廻し打放つた。 尤も人をば打たないで空を打ち、富豪のものゝ家には打掛けて焼払つた。其の時大 塩が采配を揮つて下知をなし、大筒を打立て、貝を吹立て、太鼓を打ち、鐘を鳴ら した、大筒を打つ時は、大塩声を掛けて危ない危ないと云つて人を払ひ除けて、そ れから打放した」といふのであつた。富豪の家へ大筒を打込んだことに就いても、 或人の手紙に、「鴻池の宅へは竹筒に火薬を仕込み投げ込んだ処、直に焼え上り、 暫時にして鴻池は焼失せた」と書いてある。此れ等も評判の一である。又或人の手 紙にて、「暴動の前夜、跡部山城守の屋敷へ、大塩平八郎が五人計りの仲間を引連 れて忍び入つて、跡部の子供等を殺した。さり乍ら、山城守は無事であつた。」な どゝ書いたのもある。それから、「市中をを一面に焼立てる時に、少しでも火を救 ふ為に火辺に寄附くものがあれば、銭砲を打つて打留めるから、近所に寄附くこと が出来なくして、焼けるが儘に任した。」それから又た斯ういふ風説も有つた。暴 動の前夜に、平八郎は養子の格之助を殺したといふことが伝はつた。併しながら、 其の風説は間もなく虚聞といふことが分つた。それは、宇津木憲之丞のことを取違 へたのであつた。此の暴動中には、又た人民恐怖の余り逃げ惑ふて、橋の上から落 ちて溺死し、又は焼死んだものなどの風聞も素晴らしいものであつた。それから又 た或説には、大塩が町を焼立てたことは、誠に已むを得ない位地であつたからだ。 などゝいふ風聞もあつた。而して此の暴動は突然ではなくして、予ねて久しく準備 したものであるといふことに就いての評判は、種々様々である。或は春頃からして 樫の木の丸さ一寸二分、長さ六尺三寸の棒、又た樫の木の丸さ一寸四分、長さ三尺 一寸の棒、其の外色々の棒などを、大塩は日々注文して作り、或は早くから鉄砲大 筒等をこしらへて居つた。それを妻や妾が色々言へば女の知ることではないなどゝ 叱り附けた。などゝ太閤記の十段目の様な話もある。暴動の当日は、鉄砲の音がし て又続いて逃路など沢山作つて、大混雑であつたなどゝ、多くの雑話が伝はつて居 る。大塩の家族は、其の養子の格之助を除くの外は、皆暴動以後に召捕られ、後に 残つたものであるから、それの話といふものは、又色々に間違へられて、世上に伝 はつて居ることが少なくない。  城方の士の周章さ加減に至つては、又殆ど滑稽を極めるものがあつた。それと、 予ねて世上が大塩を尊敬して居つた為に、此の暴動に就いても、彼を大へん偉らゐ ものに仕立てた風聞があつて、誇張したる大塩の人物談と城中の臆病談と相俟つて、 人が出逢へば、此の暴動の話で持切らぬはなかつた。

    
 

「大塩平八郎」目次/その5/その7

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