Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.8.3

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎」

その5

横山健堂(1871−1943)

『人物研究と史論』金港堂書籍 1913より転載


◇禁転載◇

  (四)管理人註

幕府政治 の衰亡を 報ずる暁 鐘 武力無き 武門政治 幕府の士 風地に落 つ 旗手は穢 多

 大塩の騒動は、此の如く誠に小規模の暴動であつたけれども、其の反響は実に偉 大なものであつた。幕府政治の転覆を報ずる暁鐘とも見るべきであつた。一与力の 身分を以て幕府に対して暴動を大阪城下に起すなどゝいふことは、徳川氏の有つて 以来始めての珍事であつて、其の事既に幕威の自づから地に墜ちたることを証拠立 つるに足るものである。一葉落ちて天下の秋を知り、天津橋上杜鵑の声に天下り時 勢の一変するを卜したといふことは、昔から名高い話である。此の前年に播州にも 百姓の一揆があり、又た甲州にもあり、而して続いで大塩の騒動に及んだ。天下の 識者には既に幕府政治の漸く衰亡しつゝあることを思はしめたのであつた。而して 大塩の騒動は、又実に幕府の実力の漸く無力に帰しつつあることを遺憾なく証明し たものであつた。形骸は飽くまで立派で堂々として居つても其の実は内容は既に崩 壊しゝあることは、此の騒動に於て、幕府自ら十分の弱点を曝露したものであつた。  武門政治は武力を以て立たなければならぬ。武力無き武門政治を想像することは 出来ない。然るに、大塩の騒動に於て徳川氏は既に武力無き武門政治を行ひつゝあ ることが知られた。武力無き武門政治は、存立すべき理由が無い故に、遠からす幕 府が顛覆せざるべからざることは、識者にも明瞭に分つたのである。  大塩に対する城方の狼狽周章、言語道断の有様であつた。与力の本多為助の実話 といふものに拠ると、此の時、城代跡部山城守の態度は、実に見苦しいといふも愚 かなほどであつた。大塩方が人家を焼払つて進んで来た。既に天満橋まで進んでも、 彼れ山城守は更に進軍することが出来なかつた。後にて聞けば、山城守は前夜大塩 一味のものゝ裏切に依つて、予め此の騒動を知つて居た故に自分が敵方の的になつ て狙撃せられはしまいかといふことを恐れた故に、進軍するの勇気を失つたといふ 話である。本多、坂本等が、「東照宮の御社も最早危く相見えるから、此の御社に 万一のこと有ったならば、憚りながら御家にも関はる一大事であらう」と云つて激 励した為に、跡部も漸く勇気を持直して進軍に及んだのであつた。此の時、纏持は 真先きに進まなければならぬ役目である。然るに、誰れも敢て進むものは無かつた、 誰れも纏を持つものは無かつた。敢て旗手を承はる者は無かつたのである。本多等 は先づ御馬印を真先きに進めて、其の後から驀然に一軍押出して然るべきことを勧 めたけれども、如何にせん纏持が、何時の間にか逃げ失せるといふ有様であつた。 誰れも真先きに押出て進み得るものが無かつた。所柄、穢多が大分城中に詰合せて 居つた故に.其のものに大小を帯刀させて命を奉じて真先きに纏を押立てゝ進んで。 穢多が旗手を承はつたのである。其の後へ引続き一軍進撃して.山城守も出馬した のであつた。それで事実を纏めて話しなれば、前の晩から、既に大塩の暴動のこと は予知されて居り、且つ当日は早朝から分つて居る筈にも拘らず、小田原評定計り に時間を送つて、此の如く大将の出軍遅刻したのみならず、其の場に及んで、今日 で言はゞ旗手になるものが無かつたといふ如きは、実に士気の衰頽を証して余り有 るものである。本多の評に「武芸の奉公には穢多にも劣り候体たらく」と言つて居 るのは、一言も無い処であらう。言はゞ大塩方は烏合の衆であるけれども、必ずし も城方に鎮圧せられたのではなく、烏合の一揆である為めに、自ら潰れたのに過ぎ ない。城方に於ても、正々堂々として此の如き烏合の群の一揆を威圧した処は少し も見えない。威圧どころか、旗手の名誉に任ずる士すらも得難き有様であつた。此 のやうに武力の振はない武門政治は、何時までも永続する訳は無い。武門政治の既 に武力の無かつたことは事実である。大塩の騒動に依つて唯だ現実に其の真相を曝 露したまでに過ぎないのである。此れ程の事実があるのでなけらねば、時勢が如何 に変遷し、場合が如何に切迫してあつたにもせよ、僅に一与力の身分を以て、大阪 城に向つて強襲を試みる如き、大胆な態度に出ることは出来ない。大塩は、城を乗 取る事が、縦令、其の目的で無かつたとして見ても、威迫する考は無くてはならぬ。 大塩は徳川政治の衰亡に裏書したる最初の人であつた。






























跡部は
東町奉行





藤田東湖
「浪華騒擾記事」
 

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